第1章 桜の欠片
春の終わり、風に舞う桜の花びらが、まるで時間を巻き戻すように彼女の頬を撫でた。
「……やっぱり、ここに来ると落ち着くな」
川沿いのベンチに腰を下ろしながら、葵は呟いた。
隣には、少し疲れたような笑みを浮かべる青年――湊がいた。
ふたりが初めて出会ったのも、この場所だった。
あの頃、葵は恋を信じていなかった。
裏切りも別れも、もう十分だと思っていた。
けれど、湊の「ありがとう」という言葉が、少しずつ彼女の中の氷を溶かしていった。
「なぁ、葵。お前って、謝らないよな」
「え? そうかな?」
「うん。でもそれがいいと思う。“ごめん”より、“ありがとう”の方が、お前らしい」
葵は、ふっと笑った。
そう言われたのは初めてだった。
――“ありがとう”の方が、私らしい。
その言葉が胸の奥で静かに響く。
「湊はさ、どうしてそんなに優しいの?」
「優しいっていうか……俺、多分、不器用なんだよ。怒るのも苦手で、だから“ありがとう”で誤魔化してるだけ」
「……それでも、いいと思うよ」
葵は小さく息を吐き、湊の肩に頭を預けた。
ほんの少し触れるだけで、胸の奥があたたかくなる。
怖いほどに。
けれど、心のどこかで――
この穏やかな時間が永遠ではないことも、彼女は知っていた。
湊のポケットの中に、もう一枚の写真がある。
そこに写るのは、別の女性。
彼が過去に“守れなかった人”。
その痛みを抱えながらも、彼は今、葵と笑っている。
だからこそ、葵は思う。
「湊。ねぇ、もしも私がいなくなったら、泣く?」
湊は、驚いたように彼女を見つめた。
そして、少し間を置いて答える。
「泣かないよ。……ありがとうって言う」
その言葉が、痛いほど優しかった。
葵の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「じゃあ、私も。“ごめんね”じゃなくて、“ありがとう”って言うね」
花びらが風に舞い、二人の間をすり抜けていく。
春の光はやがて薄れ、夕暮れが街を包みはじめた。
静かな沈黙。
でも、確かにそこにあるのは――
悲しみよりも、愛だった。
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