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しろい手に乗ったそれは、まるで爆弾のようだった。
まだ陽も傾かぬ午後3時。仕事が早く終わり。
光熱費を浪費する為に帰宅する気も起こらなかったわたしは、
勤め先近くにある図書館に隣接する広場のベンチに1人座っていた。
焼かれる様な気候は数週間前に去った。長袖の作業着でも汗が出ることもない。
目を閉じれば、吹いてくる風が頬を心地よく撫でる。
「あの。すみません。」
瞼をひらいて最初に目に入ったのは、風で揺れる青い千鳥格子のスカートと、
そこから伸びる細い脚だった。
目線をあげると、眼鏡をかけた少女が1人立っている。
まだ十四、五といったところか。髪の毛は綺麗にポニーテールに結われており、制服の着こなしは、学校案内の冊子から飛び出してきた様だ。
頭の中に疑問符が浮かぶ。わたしにはこの年代の少女に話しかけられる理由が一切思いつかない。むしろ、”オッサン”と無意味に避けられるような存在だろう。
「あの。すみません」
「あ、失礼。なんでしょう?」不用意なタメ口は避けて丁寧に応じる。
「私、ニッタヒナコと申します。質問を2つしても良いですか?あ、”質問をしても良いか”が1つめで、本当にしたいのは2つ目なんですが。」左手でピースサインを作りながら、ニッタヒナコと名乗った少女はそう尋ねる。何とも妙な言い回しだ。
「どうぞ。」話しかけられた側にも関わらず、この年齢の娘と会話するのは、どこか罪悪感めいたものを覚える。
「ありがとうございます。」ニッタヒナコは、そう言ったのち一拍おいて言った。
「親戚の中に、中学3年生の男の子はいますか?」
「え、なに?」
「親戚の中に、中学3年生の男の子はいますか?」まるで録音のような反復。
「中学生は、いないな。田舎の妹のところに7歳の女の子と4歳の男の子がいるけど」的の中心のみの狙ったような質問に気押され、必要のないことまで、わたしは答えていた。
「気にしないでください。変な質問をしたのは私なので」まるで頭の中を読んだように、ニッタヒナコは言う。どうにも調子を狂わされる。
「それで、その質問にはどんな理由があるの?」
自分のペースを取り戻そうと、わたしは話を向けた。
ニッタヒナコは、その質問に返答することなく、肩に下げていた学生鞄の中を探り始める。この年代にありがちな、ガヤガヤとしたキーホルダーの類は一切かかっていない。
「これ。食べてくれませんか」
しろい手に乗ったそれは、爆弾のようだった。
眩暈がする様な精緻なタイマーや配線があるものではなく。
子供が描くような黒い球体。
表面に太陽の光が差し、艶々とした光沢を放っている。
よく見れば、ところどころに継ぎ目のようなものが見える。
「おにぎり?」
「はい。そうです。おにぎりです」
「おねがいします。食べてください」お手本の様な角度で頭を下げると、折り目正しい髪の分け目と、そこから覗く白い頭皮が目に入る。
手を差し出すと、ニッタヒナコはそれを私の手の上に置いた。ずっしりと重たい。見た目が相まって、ますます爆弾に見えてくる。しかし、なんとも不恰好だ。
「このサイズはさすがに慣れなくて」また頭を読まれたようだ。
「どうして、これを?」そう尋ねるとニッタヒナコは、蝶が花にとまる様に私の横に腰を落ち着かせた。その無防備な距離にわたしは、思わず座る位置を僅かにずらして彼女から離れる。
「食べてください。」娘でもおかしく無い年齢の少女から指示をされ、わたしはおにぎりを包んでいたラップを開く。海苔と米の香りがわずかに鼻腔に届いた。
「じゃあ。いただきます」一見の店の暖簾をくぐるような緊張を覚えつつ、私はおにぎりにかぶりつく。米の水分を吸った海苔が張り付き、ぎっちりと密に握られた米が口の中で膨張していく。
「どうですか?」前を見たまま尋ねるニッタヒナコに口を左手で隠し、
「もいしいよ」と答える。しかしその大きさゆえか、一向に具が現れない。もしかして、このサイズで具なしなのか?
「ありがとうございます」先ほどと同じく、規律正しく頭を下げ、しばし、わたしがおにぎりを食べ進めるのを確認したのち、ニッタヒナコは話し始めた。
「私、好きな人がいたんです。あ、食べてください。ちゃんと具は入ってます」
その彼、同じクラスだったんです。
お調子者で、クラスの人気者でした。得意な科目は体育。
熱心な科目は家庭科。彼、料理人になるのが目標だったんです。
うちの中学、購買とかも少しはあるんですけど。お弁当が基本で。
でも彼の家、母子家庭で、だからお母さんがパートを掛け持ちして家計を支えていたんです。だから朝も時間がなくて、お昼のためのお小遣いを貰っていたんです。“これでお昼買って食べなさい”って。でもそのお金、彼一切使っていなかったんです。
「あ。」米と海苔の味のみだった中に、甘じょっぱさが現れた。思わず声を上げる。見れば米の中に、これまた不恰好な卵焼きがひとつ埋まっていた。
「卵焼きは家庭科の授業でやったきりで」
それで、どこまで話しましたっけ?
そう。お母さんから貰った、お昼代使っていないんです。
こっそり貯金してるんだって。クラスの子と話しているのを聞きました。
彼の目標。料理人になることって言ったじゃないですか。
“夢”じゃなくて”目標”。しっかりと道を見据えて向かうべき目標なんです。
だから今のうちから、専門学校のお金を貯めているんです。
この先、その目標のためにお金は絶対に必要だから。
だから、お昼休みになると、お弁当を食べている友達とかに少しだけおかずを貰いにいくんです。友達も友達で、彼の状況を分かっているから、断らない。
“貧乏くさい”。とか、”みっともない”。って陰口叩く子もいますけど、
そういうの、彼は気にしてない。気にするのを見せないんです。
誰かのお弁当を覗き込んで、”それ、一個ちょうだい”って言うんです。
”美味しそうだね”とか中途半端なことは言わずに、”それくれ!”って感じ。
それで少し前に私たちのグループのところに来たんです。
私のお弁当のネギ入りの卵焼き見て、彼が言ったんです。
「それ、一個ちょうだい」って。
その時の彼の目に私、ビビッと来たんです。
なんて言うか、ギラギラしていたんです。
眼が。
獲物を狙うライオンとかタカみたいに。
今まで誰からも感じたことがない”ギラギラ”としか言えないもの。
それが私にとって凄くビビッときたんです。
全然理解できなかった方程式が突然全部、腑に落ちたみたいな。
今まで探していたものが突然目の前に現れたみたいな。
そんな感覚を覚えたんです。そのときは。
ニッタヒナコの顔は、冷めきった思い出話をする様だった。
卵焼きは食べ終わり、再び白い米だけの地帯が広がる。
「もう。半分ですね」
それで、気がついたら彼のことを目で追うようになってて、
なんとなく”ああ。これが恋ってやつなのかな”なんて、他人事めいて考えたりして。
でも、私そういうの全然で。どうやったら仲良くなれるのか分からないまま、時間だけ過ぎて。その間にも彼は時々、私たちの席にやってきて“一個ちょうだい”をしていくんです。ウインナーとか、卵焼きとか、
「ん?」白米地帯を抜けて、再び具が現れた。彼女はそれに目を向ける。
「そう。唐揚げとか」
それで、ある時、思ったんです。もし、”一個ちょうだい”ってなった時に、おにぎりを一個あげたらどうなるかなって。それも特大の、それだけでお腹いっぱいになるような。そうです。そのおにぎり。理由はなんでも良くて、”お父さんのが間違って入ってた”とか。それに、普段彼が食べてるのって私のお母さんが作った料理で、それが急に悔しく思えたんです。
だから今朝、まだ今朝なんですね。早起きして”今日は自分で作ってみたい”って言って、そのおにぎりを作ったんです。卵焼きと唐揚げ。それ二つ入ってるだけで、お弁当っぽいじゃないですか。
どんどん爆弾みたいになっていくおにぎりを見ながら、これ見たらどんな顔するのか、あの日見たギラギラと、感じたビビッが2人の間で爆発するんじゃないか。なんて考えながら握ったんです。
「でも。」ニッタヒナコは少し遠くに目線を送る。
今朝。鞄にそのおにぎりを入れて、いつも通りに登校したんです。
頭の中で何回も『お父さんのが間違えて入ってたの』ってセリフを繰り返してました。いつもの時間に席について、彼は割とギリギリにくるから、ただ空席を眺めたりしながら。
そしたら、彼が登校してきて。でも少し違うんです。いつもの少し擦り切れたスクールバックが、綺麗なスポーツメーカーのリュックに変わってて、友達も”どうしたんだよ。それ”って騒ぐんですけど。笑って誤魔化すだけ。
朝礼の後でした、彼が先生に促されて前に出たんです。
教室がちょっとザワザワしてました。それで、前に出た彼が言ったんです。
”母さんが再婚することになって、苗字が変わる。”って
“でも、みんなは今まで通りに呼んでくれて構わない。転校とかもない。節目だから言っておきたかった。”って。クラスの誰かが “苗字、何に変わるんだ”って聞いたら照れくさそうに言ったんです。”島田”って。彼は島田になったんです。
それからは普通に授業があって、私は頭の中で何回もセリフの言い方を考えて、午前の授業の最後なんてほとんど聞いてないくらい。
お昼のチャイムがなってようやくだって。思いながら、彼の方を見たんです。
そしたら彼、あのピカピカのリュックから取り出したんです。
リュックと同じくらいピカピカの2段のお弁当箱。
それを開いて、友達に向かってというか、クラスに向かって言ったんです。
“みんな。今までお昼分けてくれてありがとう。これからはそんな真似しないから。安心してくれ”って。私のおにぎりは必要なくなってしまったんです。
「それは、残念だったね」
残りわずかになったおにぎりを手に、わたしはニッタヒナコに言った。
と同時に思っていた。作ったおにぎりを意中の相手に食べてもらえなかった。
という理由で、見ず知らずの男に余ったおにぎりを食べてくれと頼む。
これから先も、その某少年と近づくチャンスはいくらでもあるだろうに。
なんとも初々しいことではないか。と。
「違うんですよ」
「別に食べてもらえなかったことがショックだった訳じゃないんです」
そうだ。ヒナコは最初に言っていた。“私、好きな人がいたんです。”と。
おにぎりは残り、2口ほどだった。
“みんな。いままでお昼分けてくれてありがとう。これからはそんな真似しないから。安心してくれ”ってすごく嬉しそうに。きっと再婚のおかげでお母さんに時間ができて、彼にお弁当作ってあげたんだろうなって。リュックとか、お弁当箱もそういう理由でピカピカになったんだろうなって。
そう思った時、彼と一緒にお弁当食べてた男子が巫山戯て、彼を”おい島田。”って呼んだんです。そしたら彼、それに笑いながら”なんだよ”って。
その瞬間私、確信したんです。
あのギラギラはもう。彼から消えてしまった。って
あのビビッを、彼から感じることも無い。って
だって彼は、"島田くん"って人に変わってしまったから。
ニッタヒナコは自嘲する様に、息をひとつ吐いた。
バカな話ですよね。自分でもそう思います。彼の本質は何も変わっていないのに。
でも。一度そう思うと、どうすることも出来ないんです。鞄の中にあったおにぎりも、急に私とは関係のない異物に思えて、朝に妄想してた2人の間の爆発とかも、全部ショベルカーで穴掘って深く埋めたくなった。
でも鞄の中にあるんです。おにぎりが。どうしようもなく。
捨てるわけにもいかないし。でも、自分で食べるのは嫌でした。
食べたら、認めたみたいだから。
だから私のことを知らない人、私の人生には全く関係の無い人。
私の本名も知らないような誰かに、消し去って欲しかったんです。
この私の気持ちの塊を。
「ごめんなさい。ニッタヒナコは本名じゃありません」少女はわたしをまっすぐ見てそう言った。丁度わたしが最後の一口を飲み込んだのと同時だった。
「食べてくださって、ありがとうございました。」
自称ニッタヒナコは立ち上がると、わたしに向かって頭を下げる。
突然の間食に腹はすっかり膨らんで、少し苦しい。
「最後に、ひとつ聞いてもいいかな?」わたしが言うと、彼女は”はい”と頷く。
「わたしに頼んだ理由は、これかい?」作業着の胸に刺繍された苗字を指差す。初対面の人には、珍しいとよく言われる苗字だ。
「はい。そうです。彼と同じ苗字でした。」
「そう」
わたしの相槌にただ微笑んだニッタヒナコ。
いや名も知らぬ少女は、もう一度あの規律正しい一礼ののち、綺麗に結えたポニーテールと千鳥格子のスカートを翻した。そして学生鞄を少し大きく振りながら、わずかに傾き始めた陽の下を、振り返ることなく去っていった。

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