月夜のバルコニー

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 十月の満月の夜、僕は一人でバルコニーに出てウイスキーを飲んでいた。  グラスの氷がゆっくりと溶け、かすかな音を立てる。  その音は、遠ざかる記憶の残響のように聞こえた。  耳を傾けながら、静かに月を見上げていた。  その日は朝から、奇妙な感覚に包まれていた。  胸の奥のどこかで、空気の粒子がいつもと違うリズムで揺れているような気がしていた。  会社ではいつも通り、書類を整理し、会議に出席し、同僚と昼食をとった。  すべては平凡だった。  けれど、心のどこかで僕は、早く一日が終わり、夜が来ることを望んでいた。  部屋に戻り、電気を点ける。  長いあいだ沈黙しているオーディオセットが、いつものように埃をかぶったまま僕を迎える。  僕はバルコニーに出た。  月は異様なほど明るく、街全体を銀色に染めていた。  こんな夜には、人は過去を思い出すらしい。  それも、できれば思い出したくないような過去を。  ウイスキーを三センチほど注ぐ。  十八年もののシングルモルト。  三年前、友人が誕生日に贈ってくれたものだ。  琥珀色の液体は月の光を受けて、夜の中で小さく燃えていた。  土曜日の夜だというのに、街は驚くほど静かだった。  遠くで時折、車の走る音が聞こえる。  僕は月の光を透かしたウイスキーを口に含み、喉の奥に広がる熱を味わった。 「月を見ているの?」  背後から声がした。  驚いて振り返ると、そこに“彼女”が立っていた。  いや、正確に言えば、“彼女の姿をした何か”が。  彼女は三年前に死んだはず。  僕が約束の時間に遅れた、あの交通事故の日に──。  彼女は白いワンピースを着ていた。  最後に会ったときと同じ服。  肩まで伸びた髪は、風もないのにわずかに揺れていた。 「誰だ……?」  声を出した瞬間、自分でもその声がかすれていることに気づいた。 「ふふふ。私よ」  彼女は穏やかに微笑んだ。 「でも、私ではないかもしれない。時間が経つと、記憶は少しずつ形を変えるものだから」  彼女は手すりに寄りかかり、月を見上げた。  横顔は、記憶の中の彼女とまったく同じだった。  小さな鼻、少し上を向いた唇、長いまつ毛。  すべてがあの頃のまま。  ただ、どこか透き通っていて、月の光を通しているように見えた。 「ウイスキー、飲む?」  何か言わなければと思い、僕は口にした。 「ううん」  彼女は首を横に振った。 「私には必要ない。でも、あなたは飲んで。あなたには必要なものだから」  僕は黙ってグラスに口をつけた。  氷はすっかり溶け、ウイスキーは少し薄くなっていた。 「月って不思議よね」  彼女が言った。 「いつも同じ面を地球に向けているの。裏側は、誰も見たことがない。人の記憶も同じ。見せたい部分だけを見せて、本当のことは裏に隠しているのよ」 「君は……幽霊なのか?」 「幽霊という言葉は、私が何であるかを説明するには足りないわ」  彼女は少し笑った。 「私はあなたの記憶かもしれないし、あなたの願望かもしれない。この月夜が見せている幻かもしれないわね」 「でも……君は、ここにいる」 「そうね。少なくとも、今は」  沈黙が訪れた。  それは不思議と心地よい沈黙だった。  僕たちは並んで、同じ月を見上げていた。 「あの日のこと、覚えているか?」 「もちろん」  彼女は答えた。 「あなたは三十分遅れてきた。私は駅前のカフェでコーヒーを二杯飲み、雑誌を読んでいた。そして、店を出た。そのとき、トラックが来たの」 「君を待たせるべきじゃなかった」 「忙しかったんでしょ? 仕方なかったわ」 「でも、もし僕が──」 「もし、もし、もし」  彼女は僕の言葉を遮った。 「人生には“もし”がたくさんある。でも、それを並べても、今は変わらない。月が満ちて欠けるのと同じ。あなたが遅れたことにも、私がそこにいたことにも、きっと理由があるの」 「君を失ってから、僕の人生は変わった」  僕は言った。 「心のどこかに空白がある。それは、どうしても埋まらない」 「知っているわ」  彼女は言った。 「でも、その空白があるから、あなたは生きていけるの。完全に満たされた人生なんて、息が詰まってしまう。月だって欠けるから、また満ちることができるの」  僕はグラスを置き、手すりを握った。  金属の冷たさが、現実へ引き戻すようだった。 「君に会いたかった」  僕は言った。 「毎日、君のことを考えていた。夢にも出てきた。でも、夢の中の君は本当の君じゃなかった」 「それは当然よ」  彼女は微笑んだ。 「夢の中の私は、あなたの記憶が作り出した私。本当の私は、もうどこにもいない。でも、あなたの心の中にいる。それでいいのよ」 「じゃあ、今ここにいる君は?」 「それも、あなたの心が作り出した私。でも、それでいいじゃない。大切なのは、あなたが今、私を感じているということ。それだけで十分よ」  そのとき、風が吹いた。  今度は本物の風だった。  木々が揺れ、遠くで季節外れの風鈴の音が鳴った。 「君がいなくなってから、音楽を聴かなくなった」  僕は言った。 「君と聴いた曲は、もう聴けない。あのジャズも、ビートルズも」 「それは悲しいことね」  彼女は言った。 「音楽は、生きている人のためのものよ。私のために聴かないのではなく、あなたのために聴くべきだわ」 「でも、聴くと君を思い出してしまう」 「それでいいの。悲しむだけじゃなく、笑ったことも思い出して。踊ったこと、語り合った夜も」  僕は目を閉じた。  確かに、幸せな記憶もたくさんあった。  初めて出会ったのは、小さなライブハウス。  友人のバンドを観に行った夜、僕たちは偶然隣に座った。  演奏のあと、月明かりの下を歩きながら、くだらない話をした。  あの夜の月も、今日と同じように丸かった。 「覚えているよ」  僕は言った。 「すべてを、はっきりと」 「あなたは月を見るたびに、私を思い出す」  彼女は静かに言った。 「それでいいの。でも、囚われないで。月は形を変えるし、世界は回り続けている。あなたも前に進まなきゃ」 「どうやって?」 「一歩ずつよ」  彼女は微笑んだ。 「朝になったら、カーテンを開けて。光を浴びて、コーヒーを淹れて。音楽をかけて、生きて」 「君はどこへ行くんだ?」 「どこにも行かない。あなたの心の中にいる。でも、私に縛られないで。新しい人と出会い、新しい時間を生きて。それが、私の願い」  僕が何か言おうとしたとき、雲が月を覆った。  バルコニーは一瞬にして暗くなり、そして、雲が流れたときには、もう彼女の姿はなかった。  そこには、僕だけが残されていた。  氷の溶けきったグラスを握りしめながら。  彼女がいた場所に手を伸ばす。  何も触れない。  ただ、少しだけ暖かい空気がそこにあった。  月は変わらずに輝いていた。  僕は思った。  人生というのは、月夜に見る夢のようなものなのかもしれない。  美しく、切なく、そして朝が来れば消えてしまう。  けれど、その記憶は形を変えながらも、確かに残る。  氷が水になるように。  欠けた月がやがて満ちるように。  新しいウイスキーを注ぎ、もう一度月を見上げた。  今夜は眠れそうにない。  でも、それでいい。  明日になれば、太陽が昇る。  そして、世界はまた少しだけ形を変える。  僕はウイスキーを飲み干し、グラスを手すりに置いた。  風が吹いた。  今度の風は、どこか優しかった。 「さようなら」  僕は小さく呟いた。  月は答えなかった。  静かに、変わらず輝いていた。  そして、僕にはそれで十分だった。 < 了 >

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