恋に落ちない春

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 駅前の坂道に沿って植えられた桜の古木が、午後の風に煽られて激しく揺れ、無数の花びらを宙へと放っていた。  その花びらたちは、意志を持っているかのようにふわりと弧を描き、アスファルトの地面やコンクリートの階段に静かに寄り添っていった。  私は駅のロータリーから続く坂道の途中で、図書館で借りた本の重みも忘れ、花びらが舞うのを眺めていた。 「この春こそ、もう恋に落ちないって決めていたのに……」  自嘲気味に、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。  通り過ぎる人々は、私の言葉に気づくこともなく、それぞれの目的地へと急いでいた。  そう、今年の春は“恋に落ちない春”にしようと固く誓っていた。  けれど、誓いというものは、決まって過去の痛みの上に立っているもの。  その痛みを、私はよく覚えていた。  年が明けた寒い夜、日記にこう書いていた。  むやみに期待して、ひとりで浮かれて傷つくような恋は、もうしないと。  だって、この数年間、そんな恋ばかりだったから。  大学一年目の春。入学式で見かけた、名前も学部も知らない先輩に憧れて、一方的に想い続けた。  図書館で見かけるたびに胸が高鳴り、すれ違うだけで一日が輝いて見えた。  けれど、話しかける勇気もないまま、その先輩は卒業していった。  私の想いは誰にも知られることなく、ただ胸の中で色褪せていった。  二年目の春。サークルのコンパで知り合った他大学の男の子と、ほんの少しだけいい雰囲気になった。  LINEを交換して、何度かメッセージのやり取りをした。  けれど、ある日を境に連絡が返ってこなくなった。  既読はつくのに、返信はない。  その状態が一ヶ月続き、二ヶ月続き、やがて半年が過ぎた。  それでも私は、スマホを開くたびに彼からの通知を期待していた。  忘れられなかった。忘れたいのに、忘れられなかった。  そして三年目。去年の春のこと。  春の風は、決まって午後に少しだけ強くなった。  桜並木がざわめき、地面に落ちきれなかった花びらが、再び風に拾われて宙に舞い上がる。  それは、最後の力を振り絞って花びらたちを空へと送り出しているかのようだった。  私は図書館の帰り道、いつものようにこの坂道を下っていた。  トートバッグの中には、レポート用に借りた文学関係の本が三冊。  少し重かったけれど、私はこの道を通るのが好きだった。  桜の季節に、この道は特別な場所になるから。

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