立ち止まることなく

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立ち止まることなく

「俺と別れて、後悔しないって言える?」  答えなんてわかりきっているのに、聞かずにはいられなかった。  一人暮らしの自分の部屋よりも馴染んでしまった部屋に、春へと向かう少し冷たい風が流れ込む。亮一(りょういち)さんが、両手に持っていたマグカップをそっとテーブルに置く。 「ああ、言えるよ」  いつもと変わらない穏やかな声には、強がりも悲しみもない。ほんの少しの寂しさはあるかもしれないけど、きっと安堵が一番大きい。無事に俺の手を離すことができてよかった、と。  それは先生だった頃からなにひとつ変わっていない。卒業して生徒でなくなっても、恋人になっても、亮一さんはいつだって俺を優先する。  たったひとこと「言えない」と、「後悔する」と言ってくれたなら、いまある俺の未来なんて全部放り投げるのに。  それがわかっているから、亮一さんは言わない。  全部、わかっている。お互いにわかりすぎているからこうなった。きっと最初から、俺を受け入れてくれたときから、亮一さんは終わりを見ていたのだろう。悔しい。悔しくてたまらない。それなのに、俺は俺の夢を諦められない。  本当に亮一さんを選ぶつもりなら、答えを聞く必要なんてなかった。この先を亮一さんの答えに委ねてしまっている時点で、俺はとんでもなく子どもで、弱くて、ズルくて、最低なやつだ。 「きみと別れることに後悔はないし、きみと付き合えたことにも後悔はないよ」 「お、れだって……」  溢れそうになる言葉を、唇を噛みしめて飲み込む。視線を手元に戻し、私物を詰め込んだリュックを閉じる。ここで泣きたくない。泣いてたまるか。だって決めたんだ。  並んだマグカップのうちのひとつへと手を伸ばす。いつのまにか、白が亮一さんで、黒が俺になっていた。ぐっと一気に傾けても、火傷はしない。牛乳が多めに入ったコーヒーはいつだって、俺に優しい温度だ。 「ごちそうさまでした」 「……うん」  玄関まで見送ってくれるのは、いつもと同じなのに腕を伸ばすことはできなかった。たぶん、お互いに。 「空港までは行けないから」 「うん」 「元気で」 「うん、亮一さんも」  先生とは呼ばない。なかったことにはしてあげない。つぎに会ったときも、俺は亮一さんと呼ぶ。この先もずっと。 「いってきます」  さよならではないのだと、わずかな抵抗を込めれば、一瞬の間のあと「いってらっしゃい」と柔らかな声が返ってきた。  いまは、これでいい。これだけで十分だ。待っていて、なんて言えないから。  自分から視線を解いた。もう振り返らない。ドアへと手を伸ばす。風は冷たいけれど、景色は明るい。  今度こそふたりでいられる未来を持って帰れるように。  胸に隠した決意とともに、春へと向かって踏み出した。

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