めぐると信じて
「俺と別れて、後悔しないって言える?」
不意に届いた問いに、両手に持っていたマグカップの水面が揺れた。
部屋に残っていた荷物を片付けにきた彼が、じっと僕を見上げる。彼の前髪が揺れ、窓から風が入ってきたことに気づく。まっすぐな視線に込められたのは、期待か決意か。決意、であるべきだ。
静かに息を吸い、テーブルにカップを置く。いつもよりそっと。こぼれないように。
「ああ、言えるよ」
もしも、もらった問いが「俺と別れても、寂しくないって言える?」だったなら。嘘をつかなくてはいけなかっただろう。
春の匂いを纏った冷たい風が部屋を回る。ぽつんぽつんと見慣れない空白が胸を弾く。この部屋をささやかに彩っていたものたちは、彼のリュックへと居場所を移した。
彼にとっても同じ。ここは彼の長い人生の、ほんのわずかな時間を過ごしただけの、それだけの場所。僕にできるのは、彼が進む先へと背中を押してあげること、それだけだ。
「きみと別れることに後悔はないし、きみと付き合えたことにも後悔はないよ」
この言葉に嘘はない。嘘がないことが問題だった。本当に彼を思うなら、付き合うべきではなかった。受け入れてはいけなかった。ほんの少しの時間でもいいなんて、断る理由を見つけられなかった僕の弱さでしかない。
いまだって、もう二度と会いに来ないようにすることだってできるのに、僕はそれを選べずにいる。
「お、れだって……」
震える声に、思わず手を伸ばしそうになった。彼が視線を逸らさなかったら、リュックを閉じなかったら、すべてを台無しにするところだった。ぎゅっと二の腕を握りしめ、テーブルへと視線を落とす。
白のマグカップにはブラックコーヒーが、黒のマグカップにはカフェオレが入っている。いつもより水面が高い。牛乳が多めになったのは、火傷しないようにという優しさではない。量を増やしたら、ほんの少しだけここにいる時間も増えるから。そんな僕のズルさに気づいているのか、いないのか。
彼は一瞬の躊躇いもなく一気に飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「……うん」
増やすのではなく、減らしたなら。いつもより温度を高めにしたなら、冷めるまでいてくれただろうか。なんて。別れることに後悔はないのに、寂しさがじわじわと広がっていく。
そんな僕とは反対に、彼はまっすぐ玄関へと向かう。ここでの時間は終わりだと、見上げる高さになった背中が言っていた。
彼に触れることも、触れられることも、もうない。僕もちゃんと手を離さなくては。
「空港までは行けないから」
「うん」
「元気で」
「うん、亮一さんも」
ほんのわすがな時間。きっとすぐに忘れられてしまうような。それでも、彼は僕を「先生」には戻してくれない。たとえ彼が僕のことを忘れても、僕は忘れられないだろう。
「いってきます」
もしも次に会うことがあったなら「おかえり」と言ってもいいのだろうか。わずかに期待が掠めたが、口には出せない。
「いってらっしゃい」
ほっとしたような表情のあと、彼が視線を解く。最後にもっと顔を見ておけばよかった、なんて。
開いたドアから差し込む光が、彼の輪郭を縁取る。せめて後ろ姿だけでもちゃんと見ておきたいと思うのに、視界はぼやけていく。じわじわとせり上がるのは、寂しさだけではないのだと胸が痛みを鳴らす。振り返るな。振り返るなよ。僕の強がりから出た願いを、彼はちゃんと叶えてくれた。
「……ずっと、すきなんだろうな」
ぽつりとこぼれた声を、緩やかな風が攫っていく。僕の想いは届かなくていい。だから、どうか、この風が彼にとって優しいものでありますように。
そう願って、静かにドアを閉めた。
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