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克也は能の演者である。
舞台の上では、百の感情をひとつの面に沈める男。
だが家では、茶の間のソファに沈み、テレビのリモコンを握ったまま動かない、どこにでもいそうな怠けた父親であった。
休日ともなれば昼過ぎまで寝ており、起きてきたかと思えば無言で冷蔵庫を開け、麦茶を飲み干してはまたソファへ戻る。
妻が声をかけても生返事、娘が話しかけても視線はテレビの画面に注がれたまま。そこに父の威厳はなかった。
娘の美羽はそんな父を半ば軽蔑していた。
「お父さんて、能面付けて仕事しているんでしょ? 要するに、一つの表情しかできない役者さんだね」
中学二年になったばかりの美羽は、ある晩の食卓でそう言った。
父は家にいるとき、能面は付けていないのに、能面のように無表情であり、何を考えているのか美羽には分からなかった。
能の舞台で着物を着て動いている姿も、テレビで見たことはあったが、それは遠い世界の出来事のように思えた。
能という芸能そのものが、美羽にとっては退屈で古臭く、現代とは無縁のもののように感じられていた。
克也は娘の言葉を聞くと、少しだけ眉を動かしたが、何も言い返さなかった。
ただ黙って箸を置き、湯呑みに口をつけただけだった。沈黙の奥にあるものを、娘はまだ知らなかった。
母は苦笑いを浮かべながら、
「美羽、お父さんに失礼でしょう」
と窘めた。
しかし、克也がこうした言葉に傷ついているのか、それとも何とも思っていないのか、家族の誰にも分からなかった。
美羽は父のことを、感情のない人間だと思っていた。
いや、正確には、感情を持っているかもしれないが、それを表に出すことができない不器用な人間だと思っていた。
クラスメイトに父親の職業を聞かれても、「能楽師」と答えるのが恥ずかしくて、「役者」と答えていた。
* * *
ある日、学校の授業の一環で、美羽は父の出演する舞台を見に行くことになった。
伝統芸能鑑賞教室という名目で、学年全員で能楽堂へ向かうことになったのだ。
事前に配られたプリントには、「日本の古典芸能に触れ、その価値を理解する」という教育目標が記されていた。
美羽は内心うんざりしていた。よりによって、父の出る公演だなんて。クラスメイトに父のことがバレたらどうしよう。
あの動かない、そして無表情な父親が、舞台でどんな姿を見せるのか、想像もつかなかった。
能楽堂に着くと、そこは思いのほか静謐な空気に満ちていた。
古い木の香りと、畳の匂い。
天井は高く、舞台へと続く橋掛りには、三本の松が描かれた鏡板が据えられていた。
美羽はクラスメイトたちと並んで観客席に座る。
周囲では、「眠くなりそう」「終わったらカラオケ行こう」といった囁き声が漏れていた。
やがて場内は暗くなり、ゆるやかな笛の音とともに、演者たちが登場した。
地謡が声を張り上げ、太鼓が低く響く。そして橋掛りから、ゆっくりと一人の演者が姿を現した。
それは、美羽の父だった。
克也は白い能面を着け、女性の装束に身を包んでいた。
その歩みは、家で見るだらしない姿とはまるで違っていた。
一歩一歩が、まるで空気を切り裂くように慎重で、しかし確固たる意志を持っているように見えた。
美羽は息を呑んだ。あれは本当に父なのだろうか──
照明が落ち、松風のような静寂が広がる。
舞台の上の父は、まるで別の生き物になったようだった。いや、生き物というよりも、何か人間を超えた存在に変身した。
謡が始まり、父はゆっくりと舞い始める。
その動きは、決して派手ではなく、むしろ極限まで抑制されていた。
その一つ一つの所作には、言葉では言い表せない重みがあった。
父の顔は、能面によって覆われていた。
その面は「小面」と呼ばれるものだった。
若い女性を表す面であり、微笑んでいるようにも、哀しんでいるようにも見える、不思議な表情を湛えていた。
彫られた眉は細く、目は伏せがちで、唇はかすかに綻んでいる。
全体として見れば、面は何も語らない、静かな顔立ちだった。
しかし、美羽は驚いた。
正面から見ると、その面は確かに無表情なのに、ほんのわずかに首を傾けただけで、悲しみを宿したように見えたのである。
美羽はますます目を凝らして見入った。父は舞台の中央で立ち止まり、ゆっくりと首を右に傾ける。
すると、さっきまで穏やかに見えた面が、突然、深い悲哀を帯びたように見えた。
照明の角度が変わったのもあるが、それだけではない。
父の身体全体が、悲しみという感情を纏い始めていたのである。
肩の落ち方、手の置き方、足の運び方──すべてが、言葉にならない喪失を物語っていた。
少しうつむくと、能面の表情は祈るような静けさに変わって見えた。
面が下を向き、影が深くなると、そこにはもう悲しみはなかった。
代わりに、何かに許しを乞うような、あるいは亡き人を偲ぶような、静謐な祈りの気配が漂っていた。
同じ面なのに──
同じ演者なのに──
まるで別人がそこに立っているようだった。
父が顔を上げ、正面を向いたとき、今度は面に歓びの色が浮かんだように見えた。
ほんの少し顎を上げただけであるが、面は光を受け、まるで春の訪れを喜ぶ乙女のように輝いて見えてきた。
美羽はもう、父から、そして父の付けている能面から目を離せなくなっていた。
どうして……どうして……
どうして同じ能面なのに、こんなにも違う表情に見えるのだろう……
同じ面で、同じ父であるはずなのに、なぜにこうも見事に変身できるのだろう。
周囲のクラスメイトたちの中は、退屈そうにしている者もいたが、美羽にはもう、彼らの存在すら意識していなかった。
舞台の上の父だけが、美羽の世界のすべてだった。
父は舞い続けた。
扇を開き、袖を翻し、足を踏み鳴らす。
その一つ一つの動作が、物語を紡いでいた。
言葉はほとんど発せられていなかった。発せられていたとしても、それは古い日本語で、美羽には意味が分からない。
しかし、不思議なことに、父が何を表現しているのかはしっかりと伝わってきた。
恋に生き、別れに泣き、再会に歓喜し、そして諦念に至る──そうした人生の機微が、すべて父の身体を通して語られていた。
父は無表情などではなかった。いや、無表情の中に、ありとあらゆる感情を溶かし込んでいた。
美羽の目に涙が滲んだ。それは、感動の涙というよりも、自分自身への悔恨の涙だった。
自分は何も分かっていなかった。
父のことを、何も見ていなかった。
ただ表面だけを見て、家でゴロゴロしている怠け者の男だと決めつけて、軽蔑していた。
でも、父はずっとこうだったのだ。
家で見せる無頓着な背中も、沈黙も、もしかしたらこの面のように、誰にも見せぬ想いを抱えていたのかもしれない。
美羽は思い出した。以前、母が言っていたことを。
「お父さんはね、舞台の上では別人になるの。普段は口下手で不器用だけど、面をつけるとね、何百年も前の人の魂が乗り移るのよ」
当時の美羽は、その言葉を大げさな表現だと思って聞き流していた。
でも今、それが真実だと分かった。
父は変身していたのだ。いや、正確には、面で顔を隠すことで、父の中の何かが、静かに目を覚ましていたのだ。
舞が終わり、面を外した父が深々と頭を下げた。
観客席から、静かな拍手が起こった。
それは、コンサートやスポーツの試合で起こるような熱狂的な拍手ではなく、心の奥底から湧き上がる、敬意に満ちた拍手だった。
美羽も、気づけば手を叩いていた。涙で頬が濡れているのも気づかずに。
父の顔は汗に濡れていた。普段の、あの無表情な顔ではなかった。そこには、舞台を終えた者だけが持つ、ある種の充足感と疲労が混ざり合っていた。
目は潤み、呼吸は静かに乱れ、しかしその表情には、確かな達成感が宿っていた。
それは、生きている人間の顔だった。感情を持つ、血の通った人間の顔。家の中では決して見えなかった光。
美羽は悟った。父は家では、意図的に自分を消していたのかもしれないと。
能の演者として、舞台で全身全霊を使い果たした後、家では静かに休息する。それは怠惰ではなく、次の舞台のための準備だったのかもしれない。あるいは、家族に心配をかけまいとして、疲れを見せないようにしていたのかもしれない。
公演が終わり、生徒たちは能楽堂を後にした。
美羽は一人、少し離れた場所で父を待った。やがて着替えを終えた克也が、いつもの地味な服装で楽屋口から出てきた。
「お父さん」
美羽が声をかけると、克也は少し驚いた顔をした。
「美羽か。どうだった」
「……お父さんが、全然別の人に見えた」
美羽には、それ以上の言葉が見つからなかった。
いや、言いたいことは山ほどあるのだが、どう言っていいのかがわからなかったのだ。
ごめんなさい。今までバカにしててごめんなさい。お父さんのこと、何も分かってなかった。
そう言いたかったが、声にならなかった。
克也は、いつものように無表情だった。
しかし今の美羽は分かっていた。その無表情の奥に、どれほど深い感情が潜んでいるかを。
「そうか」
父はただそれだけ言って、美羽の頭にそっと手を置いた。
その手は大きくて、温かかった。
* * *
その夜、美羽は自分の部屋で、能についての本を開いていた。
そこには、能面の種類や、その歴史、演技の技法などが書かれていた。
能面は、一つの面でありながら、見る者の心の形に応じて変わる。
面は、演者の技量によって生きもすれば死にもする。
同じ面を使っても、未熟な演者が着ければただの仮面でしかないが、熟練の演者が着ければ、そこに魂が宿る。
面そのものは変わらないのに、見る者には全く違うものに映る。
それは、演者の身体の使い方、呼吸の置き方、心の在り方すべてが、面を通して観客に伝わるからだ。
美羽は、父の舞台を思い返した。
あの面は、確かに生きていた。いや、父が面に命を吹き込んでいた。
父は、何十年もの修行の果てに、面と一体になることができたのだろう。それは、一朝一夕にできることではない。
毎日毎日、何年も何十年も、同じ型を繰り返し、身体に染み込ませ、そして初めて到達できる境地。
そのことを、美羽ははじめて知った。
そして彼女は、自分の中の父の像も、ゆっくりと変わっていくのを感じていた。
それは、春の雪解けのように、ゆっくりと、しかし確実なものとなった。
父は、相変わらず無口だった。家での態度も、以前と変わらなかった。ソファに座り、テレビを見ている。
でも美羽の目には、それは怠惰には見えなかった。舞台で燃やし尽くした炎の、静かな余韻に見えるようになった。
その沈黙の中に、どれほど多くのものが詰まっているか、今の美羽には想像できた。
* * *
翌朝、美羽は少し早起きして、父に朝食を作った。トーストとスクランブルエッグ。美羽が父に作るのは初めてだった。
克也は少し驚いた顔をして、
「ありがとう」
と言った。
「お父さん、次の公演いつ?」
美羽が尋ねると、克也は湯呑みを置いてから言った。
「来月だ。別の演目だが」
「観に行ってもいい?」
克也の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
それは、能面のような微笑みだった──悲しみも、歓びも、すべてを内包した、深い笑み──
「ああ」
その一言で、美羽にも笑みがこぼれた。
父と娘の間に、新しい絆が生まれ始めていた。
能面が光の角度で表情を変えるように、人と人との関係もまた、見る角度によって、理解の深さによって、まったく違うものに見える。
窓の外では、春の光が白く揺れていた。
夜の面が朝の光で表情を変えるように、父と娘の世界もまた、ゆっくりと形を変えつつあった。
< 了 >

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