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家の中は静かだった。
風の音すら聞こえず、私の部屋だけが、水も動かず酸素も失った水槽のように、時間を閉じ込めていた。
春が来て、学校が始まっても、私は玄関を出ることができなかった。いわゆる、不登校だった。
教室の椅子に座る自分の姿を想像するだけで、吐き気がした。
名前を呼ばれること、人の目を感じること、何かを言わなければいけないこと。
それらが、針のように体中を刺した。
代わりに、私は昼に眠り、夜に目を覚ます生活を続けていた。
カーテンを閉めたままの薄暗い部屋の中で、本を読み、スマートフォンをいじり、何も考えないようにして過ごしていた。
ある日、起き抜けに母が笑いながら言った。
「今朝、寝言で“パンケーキ食べたい”って言ってたよ。なんだか楽しそうだったわ」
私は曖昧に笑ってごまかしたが、心のどこかがざわついた。
パンケーキなんて、もう何年も食べていない。
そんなこと、思ってもいなかったはずだ。
次の日、机の上に一冊のノートが置かれていた。
開いてみると、日付とともに短い言葉が並んでいる。
4/7
青い自転車をさがしてるの
4/8
うさぎがまどからのぞいてた
4/9
パンケーキ食べたい
どうやら、母は私の寝言を書き留めているようだ。
私は嫌悪と羞恥を覚えた。
寝言を勝手に聞かれていた。
寝ているところを覗かれていた。
けれど、寝言の記録を読み進めていくうちに、なんだか妙な懐かしさが胸に広がっていくのを感じていた。
「青い自転車」は、小学校のときに乗っていたお気に入りだった。
「うさぎ」は、昔、大事にしていたぬいぐるみ。
「パンケーキ」は、祖父と一緒に作った日曜の思い出。
それらは、私の記憶の底に沈んでいたものであり、日々の暮らしではすっかり忘れていたのだった。
夢の中では、忘れたはずの思い出が、そっと浮かび上がってくるらしい。
ノートは、毎朝少しずつ更新されていた。
4/13
さくらのにおいが、まだしてる
4/14
学校に靴、置いてきたまま
そんな寝言を言っていたとは……
自分のことなのに、なぜだか笑ってしまった。
昼間、起きてみようという気になり、庭に出て草の匂いを嗅いでみた。
隣の家の犬が鳴いていた。空は想像を超えて青かった。
* * *
ある日、私はノートの隅に、鉛筆で小さく書き込んだ。
「今日は起きてカーテンを開けました。」
次の日、母はそこに返信を書いていた。
「朝日、ちゃんと差し込んでたね」
親子の会話が、寝言を介してゆっくり交わされていった。
やがて、ノートは“寝言日記”から“交換日記”になっていった。

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