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第1部
王国歴1247年。この世界では、魔法は電気や水道と同じく、生活に欠かせないインフラである。
人々は、日々の感情を魔力に変換して暮らしている。
朝の目覚めの爽快感でシャワーを沸かし、仕事での達成感で書類を整理し、友人との笑いで部屋を照らす。
感情は枯渇しない無限のエネルギー源として、この社会を支えていた。
ただし、一つだけ例外がある。
それは「恋愛感情」。
恋だけは、魔力に変換することが法律で固く禁じられていた。
理由は単純で恐ろしい──恋の魔力は制御不能であり、世界そのものを歪ませる可能性があるからだ。
二百年前、ある魔法使いが恋人への想いを魔法に変えた瞬間、王都の半分が空間ごと捻じ曲がり、三日間虹色の雨が降り続けたという。
その後も、恋の魔力による事故は後を絶たず、ついに「恋愛感情魔法禁止令」が発令されたのであった。
以来、恋は「美しくも危険な、魔法として触れてはならないもの」として扱われてきた。
そんな世界で、感情を完璧に制御できる一人の少女がいた。
窓から差し込む午後の光の中、リリア・クロムウェルは一冊の分厚い魔法理論書を閉じた。
王立魔法学園の図書館は、静寂そのものだった。
彼女の周りには、読み終えた本が整然と積み上げられている。
「感情魔力変換効率、今月も98.7パーセント。まだ改善の余地があるわね」
リリアは手元の魔導手帳にペンを走らせた。
17歳、学年首席。長い銀色の髪を後ろで一つに結び、紺色の制服を完璧に着こなしている。
彼女の魔法は正確であり、無駄がなく、教授陣からの信頼も厚い。
「感情のコントロール。それが魔法使いとしての基本中の基本よ」
それがリリアの信念だった。
喜びも悲しみも、怒りも恐怖も、すべて適切な量だけ魔力に変換する。
決して感情に流されず、常に冷静に。
そして何より──恋などという非効率的な感情に、時間や労力を費やすつもりは毛頭なかった。
「リリアー! 聞いて聞いて!」
静寂を破る声と共に、図書館の扉が勢いよく開いた。
茶色い巻き毛をポニーテールにした少女が息を切らせながら駆け寄ってくる。
「カレン、ここは図書館よ。静かに」
「そんなこと言ってる場合じゃないの! 三年のアレックス先輩が告白したって! 相手は魔法薬学科のマリアで、彼女も好きだったらしくて、二人とも魔力が暴走しちゃって保健室送りになったんだって! きゃー、ロマンティック!」
カレン・ブライトは、リリアの数少ない友人。
明るく社交的で、恋バナが大好き。
リリアとは正反対のタイプだが、なぜか気が合った。
「暴走のどこがロマンティックなのよ。二人とも単位を落とすわよ」
「もう! リリアは無粋なんだから。ねえねえ、リリアは恋とかしないの? こんなに可愛いのに、もったいないわよ」
「恋は魔力効率を下げるだけ。それに──」
リリアは眼鏡を押し上げた。
「私には必要ない」
「はいはい、優等生様のお言葉ね。でも、いつかリリアも恋に落ちる日が来ると思うな。その時が楽しみ!」
「ないわ」
リリアがきっぱりと言い切ったその時だった。
ゴォォォン──!
突然、学園全体を揺るがす轟音が響いた。
窓の外を見ると、訓練場の方角から紫色の魔力の奔流が天に向かって噴き上がっている。
「また魔力暴走?」
「緊急放送が入るわ」
案の定、学園中に響き渡る魔法放送が流れ始めた。
『全生徒に告げる。第三訓練場で魔力暴走事故が発生。エルド・フェンリス、再び。制御班は直ちに現場へ向かうこと』
「エルド・フェンリス……また彼?」
リリアは小さく溜息をついた。
エルド・フェンリス──学年最下位の落ちこぼれ魔法使い。感情のコントロールが全くできず、魔力暴走の常習犯。
今学期だけで、すでに五回目の事故だ。
「リリア、あなた制御班でしょ? 行かなくていいの?」
「……仕方ないわね」
リリアは本を片付け、腰に下げた魔導杖を手に取った。
水晶の先端が淡く光る。
彼女は優秀な魔法使いであると同時に、暴走魔法を鎮める「制御班」のリーダーでもある。
訓練場に着くと、すでに数人の教師と生徒が集まっていた。
紫色の魔力の渦の中心に、一人の少年が立っていた──いや、膝をついていた。
黒い髪を無造作に伸ばし、制服のシャツは半分出ている。
エルド・フェンリス。彼の周りでは、怒りの赤、悲しみの青、焦りの黄色──無数の感情が色となって渦巻いている。
「くそ……また、止まらない……!」
エルドの声は苦しげだった。
彼の魔力は暴走しているが、それは彼の意志に反していた。
彼は必死に抑えようとしているが、感情が強すぎて制御できないのである。
「退避! 全員退避! 爆発するぞ!」
教師の一人が叫んだ。
だが、リリアは冷静に魔導杖を構えた。
「皆さん、下がっていてください」
リリアは静かに言うと、暴走魔力の中へと歩み始めた。
周囲の教師たちが驚きの声を上げる。
「クロムウェル、危険だ!」
「大丈夫です。これは私の仕事ですから」
リリアの魔導杖が輝きを増す。
彼女は自分の感情を完璧に制御し、それを鎮静の魔法に変換する。
怒りを和らげる静寂の青、悲しみを包む温かな橙、焦りを鎮める深緑。
「感情制御魔法・第三位階──『シレンティア・コード』」
リリアの周りに、幾何学的な魔法陣が展開される。
彼女は暴走する魔力の渦の中へと、まるで池に足を踏み入れるように、静かに入っていった。
エルドが顔を上げる。苦痛に歪んだ表情。
「来るな……俺に近づくな……」
「黙って。あなたの魔力、今、止めてあげるから」
リリアは手を伸ばす。エルドの肩に触れようとした、その瞬間──
ビリビリビリビリッ!
稲妻のような感覚がリリアの全身を駆け巡った。
これは──違う。今までとは違う。
エルドの魔力が、リリアの魔法に反応している。
拒絶しているのではない。共鳴しているのであった。
「え……?」
リリアが戸惑った次の瞬間、彼女の魔法が暴走し始めた。
「嘘……!?」
リリアの魔力とエルドの魔力が螺旋を描いて絡み合う。
銀色と紫色の光が混ざり合い、やがて虹色の光となって二人を包み込んだ。
「うわあああああ!」
「きゃあああああ!」
轟音と共に、巨大な魔力の爆発が起こった。
そして、世界が──変わった。

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