夜の8時。
静まり返った部屋の中。
ようやく赤ちゃんの泣き声が途切れた。
ミルクも飲ませた。オムツも替えた。
抱っこして揺らして、歌って、話しかけて——
いったい、どれくらいあやしていたんだろう。
リビングの姿見には、眉間に皺を寄せ、疲れきった表情で赤ちゃんを抱く私──里穂(りほ)の姿が映っていた。
産後三ヶ月。
愛しくてたまらないはずの我が子。
けれど、心にはもう、余裕なんて残っていなかった。
夫・巧(たくみ)は仕事で毎晩帰りが遅い。
慣れない育児に終わりのない家事。
ワンオペの日々は、知らないうちに私を削っていた。
そのせいか、最近、どうでもいいはずの小さなことで、私は巧に八つ当たりしてしまうようになっていた。
『え、また牛乳買い忘れたの?昨日もお願いしたよね……』
『ごめん、仕事が立て込んでてすっかり…』
『仕事仕事って……私だって毎日バタバタなんだよ!!』
言った瞬間、自分が一番嫌になる。
でも、疲れきった心は、もうブレーキを踏めなかった。
脱ぎっぱなしの靴下ひとつで胸がざわつく。
『……もう、なんで洗濯機に入れてくれないの?
私が拾うのが当たり前だと思ってる?』
『そんなつもりじゃ——』
『じゃあちゃんとやってよ……!!
いつも私がやってるんだよ!?』
その苛立ちも、言った後の後悔も、全部自分に向かって返ってくる。
この日も、巧は帰りが遅く、帰宅した彼に私はまた小言を並べた。
そのとき——
曇った巧の表情を見た瞬間、
胸に溜め込んでいた不安が、
自分でも制御できずに飛び出した。
「巧……私と結婚したこと後悔してるでしょ」
言った瞬間、胸がズキンと痛んだ。
目を見開き、呆然とする巧の表情を見た瞬間、
返事を聞くのが怖くて、私は逃げるように玄関を飛び出した。
***
付き合う前、
巧には結婚願望なんて一切なかった。
「結婚?うーん、俺には無理かな。
ひとりのほうが気楽だし、束縛とかも嫌だし」
そう話す彼の表情は、本当に軽やかだった。
「だってさ、多分、結婚って、好きだけじゃ続かないじゃん?
生活リズムも合わせなきゃいけないし、価値観もすり合わせないと……
俺、きっと向いてないと思うんだよね」
そんなふうに笑って言いながらも、その彼の瞳には真剣さがあった。
それでも。
穏やかで、やさしくて、誠実。
そんな彼のことを好きになってしまった私。
好きすぎて、絶対逃してなるものかと、何度も何度もアプローチして、やっと振り向かせた。
付き合えただけで嬉しくて。
ただ一緒にいられるだけで十分だった。
たとえ結婚できなくても、それでも幸せだと思っていた。
だから——
「結婚しよう。」
その言葉がまさか、巧から出た瞬間、夢かと思った。
そして——結婚した後、子宝にも恵まれた。
あの頃の私は、その先の幸せしか見えていなかった。
……なのに、どうして。
今、こんなにも苦しいんだろう。
先ほどの言ってしまった言葉が何度も頭をよぎり、視界が滲んだ。
元々“ひとりでも平気”だった巧。
"結婚に向いていない"と自分で言っていた巧。
そんな人が、本来なら安らげるはずの家に、
毎日のように感情をぶつけてしまう私みたいな女がいるなんて——
ストレスでしかないに決まっている。
もしもあの時、巧が私の告白を断っていたら……
きっともっと自由で、もっと楽な人生だったはず。
もしも私が巧なら、きっと思う。
"こんな女と結婚なんて、しなきゃよかった"
その考えが胸を重く沈める。
“こうじゃない未来”を信じていたのに。
妊娠中は、もっと穏やかな母になれると思っていたのに。
巧を大好きな気持ちは変わっていないのに。
好きで、追いかけて、やっと掴んだ人なのに。
頬を涙が伝う。
夜風が頬を撫で、通った雫の跡を冷やす。
見上げた空には、薄く雲がかかった淡い月が浮かんでいた。
こうして、夜道をひとりで歩くのは、いつぶりだろう。久しぶりのひとりの時間なのに、心はざわついて落ち着かない。
「……帰ろう」
ぽつりと呟く。
スマホを置いてきてしまったから連絡もできない。
短い時間とはいえ、我が子を置いてきたのが気がかりで仕方なかった。
でも——怖い。
帰ったら、愛想を尽かされていたらどうしよう。
“母親失格”だと思われたら……。
***
玄関の扉を開ける手が震えた。
ガチャリと扉を開けると、中は静まり返っていた。
リビングを通り抜け、
寝室をそっと覗く。
すると、ひとつ影が揺れていた。
巧が、赤ちゃんを抱いたまま、眠気と戦うような顔で揺れていた。
そして、ベッドにそっとおろした途端、泣き出す我が子。
「……また泣いちゃった。うわー、むずかしすぎ…」
小さくぼやきながら、慌てて抱き上げぽんぽんと優しく背を撫でる。その光景に、なぜか、胸が熱くなった。
「……ねぇ」
声をかけると、巧がビクッと肩を震わせた。
「うわっ……びっくりした。
あっ、おかえり」
いつもと変わらない穏やかな声。
「……ただいま」
気まずさで、声が小さくなる。
「里穂は、ゆっくりしてていいよ。寝かしつけ、俺がやる」
「えっ、でも——」
「大丈夫。任せとけ」
その笑顔に、胸が締めつけられた。
リビングで待つこと数十分。
寝室から、ほっとした顔の巧が出てきた。
「寝た?」
「うん。五回目チャレンジでやっと」
隣に腰を下ろした巧の肩は、疲れで少し落ちていた。
私が謝らなきゃ——
そう思った瞬間、
「ごめんな」
先に、巧が言った。
「里穂、ずっと頑張ってたのに……
俺、ちゃんと気づいてやれなかった」
「え……」
「抱っこしてて思ったよ。
寝かしつけ一つでこんなに大変なんだって。育児、任せっきりだったよな…」
その言葉に、胸の奥がきゅうっと熱くなった。
「で、さっきの答えだけど」
「さっき……?」
「結婚を後悔してるかって話」
心臓が大きく跳ねる。
怖い。
聞きたくない——
でも。
「後悔なんか、するわけないだろ」
「……え?」
「むしろ、"里穂と結婚しない未来"の方が考えられない。」
まっすぐな目に、息が止まりそうになった。
「でも…巧、元々結婚願望なかったじゃん…」
彼は少し目を丸くし、ふっと笑う。
「確かに。ひとりでも全然平気なタイプだったけど……」
その一言に胸が痛む。
でも続いた言葉は——
「俺、今すげー幸せなんだよ」
「……え?」
「仕事でクタクタで帰ってきて、里穂と子どもが寝てる時あるだろ?
真っ先に寝顔見に行ってんの。
可愛くてさ……癒されるんだよ。それ見てる時間、めちゃくちゃ幸せ」
「そんなこと……してたの…?」
「してる。ずっとな」
照れたように笑って続ける巧。
「誰かとずっと一緒にいるなんて考えられなくて、疲れるって思ってたけど、
里穂といる時だけは全然違った。
自然体でいられて、いないと寂しくて。
たぶん……特別なんだよ、里穂は」
「……っ。でも…最近私、怒鳴ってばかりで…」
「いや、それ普通に俺が悪いじゃん。
怒られて当然のことばっかしてたし。本当にごめん」
弱い笑みを浮かべる巧に、涙がぶわっと溢れた。
巧はそっと私を抱き寄せた。
「命育ててるんだもんな。
そりゃ余裕なくなるよ」
「……っ」
久しぶりに包まれた温かさと、その言葉に胸の奥の緊張が自然に解けた。
(そっか。私、ずっと不安だったんだ。)
家にいるんだから“母として、妻として完璧じゃなきゃ”ってずっと気を張っていた。
巧に、結婚したことを後悔して欲しくなくて、弱音も泣き言も全部飲み込んできた。
だから、最近、余裕がなくなり怒鳴ってばかりの自分が本当に嫌で。
その度に、心の奥でずっとついて回っていた不安。
それが、今回弾けてつい口から出てしまった。
「結婚したこと、後悔してるでしょ」
って…
もしも、
巧の口から先にそんな"たられば"を言われたら耐えられなかったから。
だから自分からきいてしまっていた。
しばらく抱きしめられたまま涙が止まらなくて、巧のシャツがそのせいでぐしゃぐしゃになった。
「ごめん…最近、感情ぐちゃぐちゃで…」
泣き腫らした目で見上げると、巧は目を細めて微笑んだ。
「てかさ、逆に里穂は我慢しすぎ。もっとぶつけていいよ。…夫なんですから」
「……っ…」
「大丈夫だから。」
優しくも頼もしいその言葉を聞いて改めて思う。
この人を好きになってよかった。
この人と、結婚出来て良かったと。
すると、巧は思いついたように話し出した。
「なぁ。俺……育休とろうかな」
「え?」
巧の真剣な目がそこにあった。
「でも、急にとったら職場大変なんじゃ…」
「とりあえず、上司に掛け合ってみる。難しければ、せめてもっと早く帰れるよう調整してもらう。」
「いいの…?」
「一緒にやりたいんだ。
子育ても、家事も、出来ることは。
もう、里穂に一人で背負わせたくない。てか、今ちゃんと向き合わないでいつやるって感じだし。」
「巧……ありがとう」
今度は私から抱きつくと、先程涙で濡らしたシャツが頬にピタっと貼りついた。
その瞬間、寝室から小さな泣き声。
「「あっ」」
二人で顔を見合わせた。
自然と笑みがこぼれた。
(fin.)
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