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文学少女は、あのときだけ、ほほえんだ
彼女の眼の奥に宿っているのは、金平糖のような光。
それは、暗闇の中では決して見ることのできない光。
その微かな光を見逃さない者だけが、彼女に本気で惹かれてしまうのだと思う。
「わたしは娼婦よりも、貴族の方に同情してしまうわ。読んでみれば分かると思う。モーパッサンは娼婦を気高く描いてる。決して、同情するべき存在として描いていない」
そう言う彼女は、モーパッサンの『脂肪の塊』が収録された文庫本を、膝の上に伏せている。
文学少女というのは、こういう姿を形容して言うのだろう。本を読んでいるだけでは、その資格がない。本をアクセサリーのように映えさせる者が、そう呼ばれるに値する。そんなことを、彼女は暗に示しているように見えた。
しかし、公園のベンチに座り、ぼくに眼をやることなく、独り言のように言葉を紡いでいる彼女は、どこか不気味だった。
本を読むと、彼女は呪われてしまう。
そんなことが頭に浮かんでから少しして、フィクションの中の設定は、ノンフィクションの地平で言葉にすると、ありふれた比喩としてしか機能しないという、彼女の言葉を思い出した。
小説は設定ではなく文章に妙を置くべきだ。設定は言葉にしたときに陳腐になってしまうという、あまりにも非文学的な性質を持っているのに対し、小説的な文章は、口にしてもなお、文学的な性質を保つことができるからだ。
彼女はそう言っていた。小説の設定は、現実に対してなんら効能を持たない。小説的な文章だけが、現実を変質させることができるのだ、とも主張していた。
翻訳された小説は、小説的な文章と非小説的な文章のせめぎ合いを感じるから、月に二冊くらいでいい。彼女はそうも言った。
それと密接な関係性はないに違いないけれど、彼女がハンバーガーショップに行くのも、月に二回だった。それも、平日ばかりで休日であることはなく、部活帰りに寄るのが常だった。
黒い髪、黒い眼、黒い眉、紅い唇、血色の悪い肌、乏しい表情……日本人形と聞いてイメージするモノを擬人化し、ありふれた美人のイメージを重ね合わせると、彼女の――黒川永遠子の容姿が浮かび上がってくるだろう。
しかし、その姿をイメージしたとしても、実際に彼女を見れば、こちらを圧倒してくる、ある力を感じるに違いない。その力の正体は、彼女の容姿を侵食するほどの独特な雰囲気にあると言っていい。
その近寄りがたい雰囲気は、ひとを嫌い、ひとの集積を嫌い、ひとが形作る社会を嫌い、ひととひとの網の目を地球大に拡げることに興味のない、自己中心的ともいえるほどの、他人への関心のなさ、そして、自分の世界を他者が統治することを望まないという反発心に、起因しているのだろう。
しかしぼくだけは、彼女の世界に滞在することを許されている。その理由を説明する言葉を、彼女は文にも音にもしないけれど。
彼女は、部活終わりに突然、「ポテトが食べたいから付き合って」と月に二回言ってくる。ふたりきりの文芸部の部室で。その誘いに規則性はない。おそらく気まぐれに彼女は誘っているのだと思う。
だけど彼女の最初の注文は、ハンバーガーでもソフトドリンクでもポテトでもなく、日が暮れるまで一緒に公園にいてほしい、というものだった。
もう秋だ。公園にいると、少し肌寒い。それに、本を読むのも考え物なくらい、うす暗くなってきた。子供たちはまだ、拓けたところでボール遊びをしているけれど。
この木組みの屋根の下の休憩場には、ぼくたちしかいない。もしかしたら、ぼくたちを二人きりにしようと、公園にいるひとたちが気を遣ってくれているのかもしれない。
白い雲は鼠色を孕んで、住宅地の上に寒々しい影を落としている。山の見えないこの町は、海も見えないし、湖も見えないし、ビル群も見えないし、渋滞を見ることもない。
憂鬱に憂鬱を重ねて水で濡らして、木漏れ日にあてたような町、という比喩は的を射ていないこともないだろう。ぼくも彼女も、そんな町で育った。
鳥になっても一望できないこの町を前に、ぼくたちは無力だ。なにかに制御されることはあっても、自らの意思で制御できるものはないに等しい。
そんな町に住みながら、抗いがたい現実と、どうにもうまくいかない、ひととの付き合いのなかで、思春期という腫瘍の疼きに、もがき苦しむ。
それでも、ぼくたちは生きていく。「それでも」ができないひとがいる、という前提が覆されることはないけれど。
彼女もそのうちの一人であるはずなのに、素知らぬ顔で生きているように見える。影のようにべったりと付きまとってくる不安や苦しみ、侵されていく自我、暴走しがちな理性……それらは、彼女にとっては、季節外れの衣服のようなものだ。そう思わせる雰囲気もあった。
だけど、「ポテトが食べたいから付き合って」と言うときの彼女の眼には、ぼくにも共感のできる戸惑いや恐れが現れている。まるで、長いまつ毛の影が落ちた、あの清澄な眼だけが、思春期を迎えたかのように。
しかしその眼は、その眼を見つめる者の眼をも、思春期に固有の煩悶で彩る。いや、それは彩るというより、呪うという言葉がぴったりくる作用だ。
やはり今日も、彼女は、ハンバーガーとポテトとソフトドリンクを注文するのだろう。ハンバーガーとソフトドリンクは気分に応じて選んでいるけれど、ポテトを注文しないことはないし、量もSサイズで変わらない。
それに付き合って、ぼくもいつも同じものを注文しているけれど、彼女とは違って、顔色一つ変えずに食べるということはできない。
量が多いだとか、好みの味ではないだとか、そういう理由ではなく、彼女の品のいい食べ方を前にしていると、肩が凝ってしまうのだ。
ぼくと彼女は同格ではない。見た目への評価の差異と同様に、所作の優劣もまた、ぼくたちの間の格の違いを強調しているように思えて、気後れしてしまう。
しかし彼女は、そんなことにも頓着していないように見える。
それに彼女は、食べているときも、ずっとなにかを考えているようで、とても話しかけづらい。
傍から見れば、仲の悪いふたりに見えるかもしれない。だけどそうした見え方についても、彼女は気にしていないようだった。
「そろそろ行きましょうか」
文庫本をバッグにしまうと、彼女は立ち上がり、さっさと歩いていってしまう。それを追いかけるものの、その勢いで横に並ぶというのは、恐れ多いという気持ちが勝ってしまうので、家来のように後ろに控える形になる。
彼女は、なにも話しかけてこない。話をしない代わりに、なにかを想っているように見える。しかしその「なにか」がなんであるのかを推察する隙を、彼女は与えてくれない。
いつも不思議に思うことだけれど、なぜ彼女は、ぼくを誘うのだろう。彼女の言い分を真に受けるならば、「ぼくだけ」を誘っているのだという。それもなぜなのだろう。その謎を解くためのヒントとなるような材料は、あまりにも少なすぎる。
それなのになぜ、ぼくは彼女の誘いに乗っているのか。意図も目的も分からないのに。
いや、自分のことに関しては、その理由を説明できないということはない。それは、文学的であることも、非文学的であることもできる、ありふれたひとつの言葉で足りる。
彼女のことが――黒川永遠子のことが、好きなのだ。
たったそれだけの理由で、ほいほいと誘いに乗ってしまうくらいに、彼女のことが好きなのだ。もし彼女が、ぼくへの好意だけを理由に、ハンバーガーショップに行くのを誘ってくれているのだとしたら、どれだけ嬉しいことだろう。
彼女の隣の席に座ることができているだけでも、すごく幸せなのに。
そういえば彼女は、席替えの後に、こんなことを言っていた。
「あなたが隣にいると、なにかと不自由をしてしまいそうね」
そして、そのときにはじめて――後にも先にもそのときだけ、ほほえんでいる彼女の姿を見ることができた。
〈了〉
【参考文献】
・モーパッサン(太田浩一訳)「脂肪の塊」『脂肪の塊・ロンドリ姉妹-モーパッサン傑作選-』光文社古典新訳文庫、2016年、31-118頁。

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