*プロローグ*
──同じ屋根の下で始まる気配**
引っ越しの日は、思ったより静かだった。
段ボールを部屋の前に置き、白波汐華は靴を脱ぐ。
荷物はまだ散らかったままだけれど、生活を始めるには困らない。
ここから、誰かと一緒に暮らす。
それは勢いでも憧れでもなく、ただ現実として必要な選択だった。
けれど玄関を閉めた瞬間、空気の温度がどこか変わった気がした。
人の気配がある。
けれど近づいてくるわけでも、踏み込んでくるわけでもない。
その“間”が、思っていたより心地よかった。
リビングに入ると、窓が少し開いていた。
風が通り、カーテンが静かに揺れる。
テーブルの上には、一枚のメモが置かれていた。
【冷蔵庫・洗濯機は自由に使ってください
ゴミの分別は棚の内側にあります】
─── 霧島
簡潔で、余計な言葉がない。
けれど不親切という印象もなく、生活の最低限だけが整えられている――そんな書き方だった。
名前の並ぶ冷蔵庫の紙を見て、汐華は自分の名前を空いた欄に書き足す。
[白波 汐華]
ただそれだけなのに、
この家の時間の中に自分が少しだけ混ざった気がした。
段ボールのひとつを手に部屋へ運び、必要な物だけを確認する。
蓋を閉じて息をついたところで、ふとリビングへ戻る。
その瞬間、キッチンから気配がした。
───霧島だった。
手にしているのはマグカップではなく、ペットボトル。
ラベルをつけたまま栓だけ外し、無造作に口をつけている。
服装は無駄がなく、落ち着いた色合い。
“整えている”というより、そこにあるものを当然のように選ぶ人――そんな自然さがあった。
視線は鋭くない。
ただ、必要なところだけを静かに捉える目。
「あ……」
声にならない音が漏れ、視線が合う。
霧島は何も言わない。
けれど沈黙は妙に居心地が悪くない。
「……今日はお休みですか?」
当たり障りない問いに、霧島は短く「そう」と頷く。
それだけで会話は途切れるが、無理に続ける必要も感じなかった。
少し間を置き、汐華は切り出す。
「あの……お名前、まだお聞きしてなくて」
霧島は一瞬だけ視線を落とし、それから静かに言った。
「霧島……一成です」
下の名まで告げるべきか迷ったような、わずかな間。
メモの文字と結びつき、ようやく彼の輪郭がひとつ固まる。
同時に、ふと気づく。
――この人は、気配が薄いのに存在感だけははっきりしている、と。
そのとき、玄関の扉が開いた。
「おっはよー……って、あれ? 早いね!」
軽やかな声とともに入ってきたのは、ラフな私服の女性。
肩にバッグをかけているのに、どこか抜け感が整って見える。
(この人が……風間さん?)
「おはようございます」
汐華が会釈をすると、彼女も笑顔で返す。
「今日からなんだよね?
部屋とか鍵とか、分からないことあったら言ってね」
自然に取り仕切る口調。
この家の動きを一番理解している人だとすぐに分かった。
返事をした直後、廊下の奥から足音が近づく。
「おはよう」
現れたのは、姿勢の良い男性。
私服なのに無駄がなく、整った立ち姿だけが印象に残る。
(この人が……もう一人の同居人)
これで全員が揃った。
知らない人たちの気配。
それでも不思議と、嫌な感じはしない。
むしろ、静かに何かが始まっていく予感だけが
胸の奥でかすかに広がっていた。
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