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 都会の滝に囲まれた歌舞伎の二丁目。画角を斜めに取ればサイバーパンクに見える街並みの、濛々と上がる水蒸気を浴びながら七瀬は一人、歩いていた。  本質的には寂しい街並みの、喧騒をくるんだ飛沫が、傘先で縦横無尽に踊る度に、地味な丈長のスカートスーツのストッキングに覆われた脚は、膝から足首に掛けて、じっとりと水が張り付くように濡れていった。  今差している傘は予備の折り畳みなので、仕方がなかった。長傘も持って出ていたが、ゴールデン街の開店前のバーに証人依頼で立ち寄った際に、店主に気を遣って玄関前の傘立てに素直に入れたら、帰り際には跡形も無かった。折り畳みはタクシー移動の際は便利だが、こんな長傘だらけの人混みでは押し負けるという点で、心もとない。  店の名前をカラフルな手書きで書き加えたビニール傘片手に、オーバーアクションで客引きに励む少女が、不意に視界の端に映った。  それとなく近づいて見ると、彼女の誘いを片手で拝んで断る男が殊の外多いことに七瀬は気づいた。買えないものがない街の一角で交わされる、心温まる気遣いに一瞬、頬が緩んだ。が、そのまま人の流れに戻り、追い抜きざまに正面に向き直った男の顔を、念のために盗み見ると、その善意の本性までもが鮮明になり、七瀬の真っ黒なスーツの下の胸には自ずと重苦しい澱が溜まっていった。 ――道で会ったスマートな他人のまま、終わってしまえば良い。   「親切だったあの人」と親しくなる日など、永遠に来なければいい――  警察が垂れ流しにしている客引き禁止のアナウンスが止まるのは、今日のような本降りの雨の時か、終電がとうに亡くなった深夜だ。雨や闇に囲まれた密空間では、善悪の光はか細く拡散されるから、七瀬たち弁護士が頼みの綱にする良心の動きも鈍い。  毎日深夜三時まで客引きをしている対象に向けられた同情が、遠からぬ未来、悪い方に変質して、真面目に仕事に勤しんでいる彼女自身を摂り込む様が、職業柄、容易に想像出来てしまった。だが少女もそんなのは自分が他の男に対して散々してきたことだと割り切って、コンビニバイトよりも遥かに高い時給と引き換えの、打算打算で生きているのか。気丈な態度の裏を暴くような真似も出来ず、またそんな度胸も無かったからこそ、実際に助けを求めてきた訳でもなし、全てが余計なお世話に違いないと、七瀬は結論付けた。思考の狭間に仕切りを立て、割り切ったのだった。弁論中に異議を唱えられた時はいつもこうして、自身熱を冷やす。下手なジンクスよりも鮮明に現実がイメージ出来る分これは効いた。  そうだそうだその通りだ、と言うかのように、傘を叩く雨音が激しくなっていく。もはやただの自然現象を超えた嫌がらせだと七瀬は思った。台風も近いという予報通り、これから通らなければならない眼前のエリアには、人波の隙間で、粘度が高そうな水を湛えた水たまりが、敷石に化けた生物のように無駄に揺れていた。  後ろには誰もいないと信じ切っているのか、ビニール傘の持ち手をぱっと放し、一心不乱にバッグの中を漁り始める女性。傘に押し付けられたツインテールが痛々しかった。その脇には、何か珍しいものを発見したのか、突然横に広がって自撮りを始める屈強な外国人観光客の姿もあった。全国有数の治安の悪い街だが、一抹の焦りや浮かれで道が塞がれても、最初期の「原因」の段階で、嫌悪感を剥き出しにされるケースは、意外と少ない。  都会特有の、道行く他人への無関心。加えて、後ろ姿しか情報がないのだから、下手に関わらずに放っておけという、弱気に由来する、嫌気と厭気が混濁した事なかれの歌舞伎版だ。ここでの暮らしが長ければ長いほど、経験則が働く。市井で関わる人間の背後霊を想像して争いを避けようとする。なお、霊の背格好は多様性の時代を反映してかバラエティに富んでいて、散々エンタメで弄ばれたあの様式美を重んじるスーツ姿はもはや少ない。  掴み所のない街で日常を掴むことに成功した人々は言わば、処世に長けた大道芸人だ。各々の不安定な玉の上で、日々生活を営めているという点で、軟体に限りなく近い傾奇者でもある。  己の平衡感覚に対する信頼と、そこから生まれた余裕が織りなす処世術を身に纏っている。各々の選択の正しさを小刻みに動く度に現れる装飾、もしくは虚飾としての襞が補強する。  歌舞伎の外では、令和の仁義と誤認されることもあってか、その流儀の人気は高い。現に今も七瀬の数歩先、列の先頭を足早に、颯爽と歩いているのは、まさに古参の住人らしかった。二番手以降で切り込みの恩恵を受けていた「にわか」達が、大渦に呑まれるように、突如として生まれた空気に、瞬時におもねっている。  ****に人と同じものを求めるのは酷よ、とばかりに列が蛇行していく。が、瞬時に再計算して選択した最短ルートも今日はすぐに塞がれてしまった。 ****、今日は厄日か。が仕方ない。全く同じ思考に基づく動作を逆方向から来る人々も行っているから、詮無いことだ。  踵を返すという選択肢は端からない。その場で停止して譲るという選択肢も滅多にしない。歌舞伎の無害な通行人Aに見られるのは良いが、それ以下としか思えない輩どもに舐められるまでは許してないからだ。ゆえに、また同じ処理を繰り返してその瞬間の新ルートを探索しながら進むのだが、現実はゲームのバグよろしく、至近距離の物体が自動的に透明になってくれはしない。殊に今日は雨だ。視界が狭まっているのに加えて、無限に道幅がある訳でもなし、遅かれ早かれ衝突は起こると、最初から決まっていた。  傘先が激しく弾かれ、飛沫が舞い散る。一睨みで判断した印象に基づく煽りだ。謂れのない舌打ちがどちらからともなく起こり、傘下の空気が凍り付く。物々しい冷気が瞬時に後方に拡散され、匿名で目立ちたい野次馬だけが得する喧嘩が始まる。  粘りつくような視線とシンクロした、相手の喉元に噛みつくような面罵と威嚇。早くも集まり始めた見物人達の嘲笑が七瀬の耳にも届いた。偶然目の当たりにした格上の落ち度を安全な場所からいじり倒せる幸運が、各々の心に痙攣の発作を引き起こしていた。全てを大袈裟と決めつける彼らに追従するような、遠巻きの囁き声もあった。より臆病な通行人が理性で抑え込んだ発作の残りかすだった。  野次馬の壁に囲まれ、携帯で撮られ、好奇の目で煽られ、もう、引くに引けなくなる。図らずもよりにもよってこの自分が見世物になってしまったという恥の負い目から、感情の制御は完全に効かなくなり、シンプルな白黒判定の下で楽になりたいという本能的欲求が身体を突き動かす。「一度攻撃の意志を見せたらもう本当に人と見なすな、二度とこちらを舐めないように一番手っ取り早い方法で叩き潰して、己が強さを結果で分からせよ」という力の題目も、彼らの流儀を成立させる精神支柱の一つだった。表の戦略を成立させる飛び道具を完封する術は、行政も含めて、未だ誰も持たない。  七瀬はため息を吐きたかった。辺りは満員電車並みの混雑になりつつあり、巻き込まれては敵わないと、慌てて通りを抜ける。歩き疲れを自覚していた脚が、急な小走りのせいで太ももを中心に痛みだした。結局、こんな場面でいつも割を食わされるのは、大人しく無抵抗な人間だ。内心、小声でもいいから毒づきたかった。が、出来ない。出来る訳ないと思った。このタイミングでそんなことをして、いくらマスクをしていると言っても、厄介な暇人に聞かれて付きまとわれたら、困る。  昨日から七瀬の元には、スケジュールの合間を見計らったように、緊急の呼び出しが続いている。何でもお気軽にご相談下さい、という、去り際の言葉は往々にして本音と建て前が半々だが、自分の場合は、特徴的な容姿も相まって建て前が効き過ぎている実感があった。七瀬が仕事で関わる夜職の人々の多くは、日常の中で酒を大量に飲んでいる。加えてストレス解消のために、トリップ前提のシーシャが習慣になっているケースも目立つことから、タイミングが悪いと、数時間の遅刻で引き延ばされた末にドタキャンされたり、会話中に吐かれたり、まともな会話にならないことがある。ゆえに確実に話を聞けるのは出勤・仕事前の短時間。向かう先も車の入れない路地ばかりだから、走りづめで筋肉痛なのだ。  すぐに止むと思っていた脚の痛みはなかなか引かず、素知らぬ顔でもう、歩けなくなった。妥協策として、通行人の邪魔にならないよう、脚を引きずり気味に列を抜け、道路脇のごみごみした安全地帯に移動した。折り畳み傘をバリアのように通り側に向け、原色が目立つ置き看板の群れの間にうずくまり、ふっと息をついた。もう歳なのか、こんな歩きにくい日は特に疲れやすくなった。だが、医者でもなし、自分で自分に病名は付けられない。ただでさえ時間が足りないのだから、割り切るべき所はさっさと割り切る。全てはまだ救えるものを適切に救うためだ。その位迅速に判断出来なければ、依頼人はおろか、誰からも信用されない。  だが、そんなことも分からないほど、今の私はバカになっているのか。七瀬は心身に染み付いた疲れを、呆れに包んで馴染ませることにした。そして本当に落ち着くためにこんな思考を、意識的に巡らせた。  ……思い上るな。私が呼ばれる時はもう全てが起こった後の祭り。  生身の私と実のある会話をするよりも、私の分身をあからさまに見下しながら、取り留めのない会話をする方が好きだった子達のことを全て救えるほど、私は万能ではない。何度働きかけても、私達の「活動普及用の携帯アプリ」で遊ぶばかりで、頑なに会おうともしなかった子を、漏れなく無傷で救えるほど、私は全能ではない。  きっとあの子達は自分で出来る最良の選択をしたと思っている。その結果起こるべきことが起こったが、結果に納得出来ないと私を呼んでいる。だが、加害者が不特定多数の状態でここまで悪く事が運んでしまったら、一法律家の私に変えられることはさほどない。何人も時を戻せる力は持ち得ない。私が出来るのは、事後の精神的なケアと、この不幸な事件を人生の教訓にするための、経験則に基づく割り切りの重要性を、まだ戻れる地点の子らに向かって繰り返し伝えること。自身の力を見誤ってはならない。ただそれだけが出来るに過ぎない。  半分当てつけ、半分責任逃れに思えるが、真摯に仕事をしてきた結果、辿り着いた真理でとしての価値はあった。歌舞伎内の案件しか受けない、一女性弁護士の事実を基に構築された結論である分、ある種のないがしろにしたら祟られそうな母性としての凄みもあった。無論、独身で生霊も飛ばせない七瀬が本当に祟ることなど、出来ない。が、感情は発露することで真実性を帯びるという性質を、当人はもう一つの顔を持つことで、嫌でも実感していた。  七瀬はここ歌舞伎で、二足の草鞋を履いている。弁護士と、歌舞伎町の路上でたむろする少年少女――いわゆるトー横キッズとその次世代――を支援するNPOの理事。  それぞれで求められる要素が真逆なので、二重人格のような日常を送っている。かたや公正の守護者としての法律業務、かたや、相手への傾聴と共感の姿勢を明確に示してなんぼの支援業務。どちらも自制ありきという点は共通している。素の性格がどうであれ法廷ではよどみない弁論が求められ、依頼人の嘘を見抜いていかなければならない弁護士という仕事は心がジキルとハイドに分離しがちだが、社会的にもう一つの顔を持ったことで輪を掛けてその傾向が強まったと言える。七瀬自身も、人格が切り替わったとはっきり思える瞬間があり、留置所や拘置所で依頼人が話した、自分の中の「別人格がやった」という発言の真意を、実感として理解出来るようになった。  そんな自分に内心驚いたが、感傷に浸っている暇はなかった。NPOは、実質常勤理事二名だけの極小組織なので、人手は足りない。とは言え、活動内容がデリケートなので、手伝ってくれるならば誰でも歓迎という無防備な透明性を打ち出してもいなかった。  必然的にルーチン業務は圧縮の方向に向かった。もう一人のITと会計に強い男性理事の希望もあり、自動化出来る枝葉の部分は徹底的に自動化してある。市販の経理ソフトの機能をエクセルのマクロで補強した仕訳自動取り込みシステムは彼の最初期の作品だ。官公庁に提出する定例の計算書類や目録・名簿の作成も、成果物から型を洗い出してパターンに落とし込み、事務系自動化・代行ツール( R P A )を張り巡らせることで、ボタン一つで完了する仕組みにしてある。   特にイレギュラーな対応が必要な時は、各種生成AIをアシスタントのように使いながら作業し、浮いた時間を新たな自動化に充てていた。目ぼしい技術は理事の彼の趣味がてら常にテストされている状況だから、世間で普及する前の数歩先のツールが使いこなされる形で、NPOの日々の業務は回っていた。  その技術の最たるものが先の「活動普及用の携帯アプリ」だった。最新の六法全書の知識と、キッズ達に対峙する時の七瀬の話し方の癖を全てインストールした、対話型生成AIアプリだ。文字通り身体がないという部分を除けばこれは七瀬の美化された分身で、導入している効率化ツールの中では最大規模かつ、唯一の市販物だった。  生活の困りごとを相談すると、七瀬の美点の柔らかい口調で、合法的に解決するための方法を適宜「助言」する。その実は1960年代の片言の日本語が初々しかったイライザ、1990年代から2000年代にかけて、エクセルとワードの海に棲んでいたカイル、2010年代のしりとりが得意だったりんな、2020年代の連想の達人ChatGPTと同系譜の、人に擬態するのが得意な大規模言語モデル(LLM)だ。アプリのカスタマイズ機能で外見、口調、名前は自由に変えられるから、推しの声と身体の素材を取り込んで、健気なペット感覚でかわいがっている子もいる。  リリース後のバグ潰しが落ち着いた際に、赤字覚悟でアマゾンギフト券を添えたビラを配ったことで、認知度が上がった。各々の携帯内での密かな使用を意図していたので、仲間内での口コミは期待していなかったが、外注先に進められるがままカスタマイズ機能を追加してからは、とりあえずの暇つぶし兼お守りとして、キッズ達の間でいじられるようになった。  便利に使われているというよりも、おもちゃとして遊ばれていると言うべきか。SNS上では素直な感謝の声もあるが、何らかの煽りや不謹慎ネタとして、都合良く切り取られた会話のスクリーンショットが投下されることの方が多い。多くの企業アカウントがそうするように、ネタの中でも行儀がましなものは、NPOの公式アカウントで天然を装って取り上げている。広報業務はキッズに近い立ち位置の広告塔の子が別にいて、その子に対応も含めて一任している。ネタに乗っかる際の正確な選定基準は不明だが、今時の優秀な子で、炎上もいつの間にか収まっている。現時点で残っているものイコール彼女の仲間内のコネでもどうにも出来なかったものということだ。上顧客を侮辱罪や名誉棄損罪で訴えるのもナンセンスであり、対象から離れた大人子供を相手にする暇もなかったので放置するしかないと七瀬自身も思っていた。少なくとも構うという発想は自分からは生まれ得なかった。無理なものは無理。だが、共存は出来る。これも適材適所と言うべきか。  奇妙なことに、自分には茶番にしか見えないアプリ上のチャットが、無駄に高い法曹の敷居を下げていると世間には評価されて、メディアの取材が来たこともあった。担当者曰く、広場で日常的に遊んでいる子の8割は、このアプリをダウンロード済みだそうだ。七瀬としては、自分達の調査結果との乖離が気になったが、敵は少ないに越したことはない。無難に微笑んでおいた。  七瀬の柔和な口調に組み込まれた、現行法規と判例に基づいた「助言」のソースは、参照すべきデータが公開される度にオンラインからリアルタイムに自動収集される。随時アップデートされる枠組みの下で、確率論の連想を超えた、一人の人の回想に近い思考もどきで、一生を掛けても終わらない程の聞き込みを行ったのと同等の、隙の無い回答が反射的に生成されるという仕組みだ。  最初の方は生成される文章全てに目を通して校閲していた。が、各回答に滲み出た七瀬の弁護士、あるいは人としての個性を自発的に解析して学ぶ深層学習の反復を通して、その必要もないほどの精度が担保されることを実感してからは、ユーザー申告制のバグ報告を定期的に確認するに留め、浮いた時間を対面の相談に充てている。事実校閲はそれで回っており、逆に弁護士としての自分が主張する筋書の弱みを実演の形で示唆されることで、法廷弁論の技術向上まで見込めるというお釣りまで来た。今では稀にある慣用句の誤用を、雑学を教える形で訂正する行為を、定期メンテナンスと呼ぶのみだ。  ただ、対面での会話が重視されるポイントで、最も大事な会話の部分に無機物を入れている負い目は、七瀬も十二分に自覚していた。ゆえにログイン後に注意事項に目を通さないと、相談自体が出来ない仕様を、アプリの開発段階から強く主張し、試作の時点で実装させた。  クラスごとのオンライングループを通してデータで伝達事項が伝えられる昨今の学校システムよろしく、この確認を通すことで、伝え漏れは原理的には存在しなくなり、相手の理解力に依拠する自己責任の問題にすり替わる。  要するにリスクヘッジのための欺瞞だ。だが、それで良しと思い込めるほど七瀬は単純ではなかった。逆にその行為の薄汚さを自覚していたがゆえに、分身はあくまでも分身という態度を貫いた。オリジナルの自分と話すことこそが重要なのだ、と、原型を留めていない「他人」にも何度も喋らせた。  我ながら過保護だと思っている。がそれでも理解しない子もいる。都合の悪いことは聞こえない振りをする子は、楽な方法で助けられないこともある。 酷い言い草だろうか。だが、こんな風に割り切らないと救えない数なのだ。

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