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本棚に追加◆ 第1章 沈んだ封筒
湖は、やけに静かだった。
風も波もほとんどなくて、
水面は曇り空をそのまま写したみたいに灰色に固まっている。
こんな朝は、嫌な予感しかしない――
そう思ったのは、現場に着く前からだった。
「……朝比奈。顔、死んでるぞ」
運転席から久慈が横目で言った。
「朝から“死んでる”はやめてほしい。縁起悪い」
「事件現場に行く人間の台詞じゃないな」
ハンドルを握る指は、
相変わらず落ち着いている。
助手席の湊は、窓の外を流れていく湖畔の風景を眺めた。
木々はまだ早春の色で、枝の先だけうっすらと柔らかい緑を宿している。
湖岸沿いに並ぶボート小屋と釣り桟橋。
その先、黄色いテープとパトカーの群れが見えた。
「――着いたな」
車が停まり、
久慈がエンジンを切る。
静寂が一瞬だけ車内を満たした。
「行くか、湊」
「……うん」
ドアを開けると、
冷たい空気が頬を撫でた。
朝霧はすでにほとんど消えているのに、
湖全体がまだ“目を覚ましていない”ように見える。
人の声だけが、そこに不自然に存在していた。
「うわ、結構集まってるな……」
警察官、鑑識、地元の消防団員。
そして、ボートの上に掛けられたブルーシート。
湖岸に立つ署の刑事が、こちらに気づいて手を振った。
「久慈さーん! 朝比奈先生も!」
呼ばれたのは、“先生”の方だった。
湊は、内心の微かなざわつきを隠すように歩調を整えて現場へ向かう。
ブルーシートの向こう、
水から引き上げられた遺体が横たわっている。
まだ若い男だ、ということだけが分かった。
「被害者は?」
「中里透。二十八歳。ここの出身だが、今は市内で会社勤め。昨夜から連絡が取れないと家族が通報して……さっき、釣り桟橋の先で見つかった」
説明する刑事の声の向こうで、
湖面が静かに震えていた。
「夜釣りの事故かと思われたが――」
刑事は、湊のほうを見た。
「一応、先生にも見てほしくて」
「分かりました」
湊はブルーシートの端に膝をついて、
そっと手を伸ばす。
死体のチェックは、もう習慣のようなものだ。
顔色、皮膚の状態、擦過傷。
手の指。衣服のよれ。
胸のあたりに軽く手を置いたとき――
ふと、違和感を覚えた。
(――軽い)
水に浸かっていたはずなのに、
想像したほど重みがない。
背中のほうにも何かがある。
救命胴衣の跡……ではない。
「浮力を押さえる何かが巻かれていた可能性もあります」
湊が言うと、隣で鑑識が頷いた。
「さっき、ベルトに変な跡は見つかりました。後で詳しく報告します」
「お願いします」
顔の脇にある髪を、湊は指で避けた。
まだ若い。
寝顔と言っても通じるような安らぎさえある。
ただ――
その手の傍らに、不自然なものがあった。
「……これは?」
湊が指さした先で、
ビニール袋に入れられた“白いもの”が目に入る。
封筒だった。
角が少しだけ濡れているが、
紙自体はほとんど水を吸っていない。
担当刑事が言った。
「遺体のすぐそばの水面に浮いてたんです。中身は空。宛名も滲んで消えかけてる」
「見ても?」
「ええ、どうぞ」
湊はビニール越しに封筒を手に取った。
白地に、流れるような字で書かれていたはずの宛名。
水で滲み、ほとんど判別できない。
けれど――
どうしても、そこだけは読めてしまった。
小さく、掠れたひらがなで。
『……みなとへ』
湊の指先が、かすかに震えた。
「……」
「どうした?」
すぐ隣で、久慈の声が落ちてくる。
「――宛名が、残ってます」
湊はできるだけ表情を変えないように言った。
「“湊へ”って書かれてます」
久慈の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「……お前、全国区になってきたな」
「そういう問題じゃない」
冗談めかして返したくても、
喉がうまく動かない。
(どうして……見知らぬはずの人の遺体のそばに、
“僕宛の封筒”があるんだ)
「この封筒の指紋と筆跡、あとインクの種類、調べてください。宛名だけ、僕の名前が残ってる」
「分かった。優先で鑑識に回す」
刑事が封筒を受け取り、
鑑識の元へと急いでいった。
久慈が、湊の横にしゃがみ込む。
「顔色、さっきより悪い」
「そう見える?」
「見える。――湊。関係あるか?」
「……まだ分からない」
分からない。
ただ、心臓だけが落ち着かない。
湖の匂いが、いつか嗅いだ匂いと重なる。
(――やめろ)
(十五年前のことは、
もう終わったはずだ)
湊は胸の奥で自分に言い聞かせた。
そんな湊の様子を見ながら、
久慈は小さく息を吐く。
「とりあえず、第一報は“事故の可能性が高い”で出てる。だが――」
「久慈は、どう思う?」
「“湊宛の空の封筒”が現場にある事故なんて、信じるつもりはない」
「じゃあ、これは――」
「今のところ、“湊を巻き込む意図を持った何者かの死”だ」
久慈の視線が、湖面の奥へ向けられる。
「……だとしたら、お前はまた狙われてる可能性がある」
「それは――もう慣れてきた」
「慣れなくていい」
即答だった。
湊は思わず顔を向ける。
久慈は、真っ直ぐに湊を見ていた。
「俺がいる。
前の事件の時も言っただろ。
“守られるのに慣れろ”って」
「……覚えてる」
「なら、ちゃんと守られろ。
封筒一枚で黙り込むな」
そう言ってから、
久慈は少しだけ声を落とした。
「湊。
これは“お前の事件”になりそうだ」
「……そうだね」
封筒の中身は空だ。
けれど、そこに残っている気配だけははっきりしている。
(中里透。
あなたは、僕に何を伝えようとした?)
(どうして、宛名を“湊へ”にした?)
湖の朝は、相変わらず静かだった。
ただ、その水底だけが、
何かを隠したまま黙っているように見えた。

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