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本棚に追加凪影(なぎかげ)
彼女が亡くなったと聞いたのは、雨の朝だった。
スマホの画面に表示された名前は、
彼女のものではない。
彼女の夫でも、友人でもない。
ただ、彼女の死を「事務的に伝える役目」を
引き受けた誰かだった。
「……昨日の夜、心不全だそうです」
それだけ言って、電話は切れた。
詳しいことは何も聞かなかった。
聞く資格が、俺にはない気がした。
通話が終わっても、耳の奥で声が反響していた。
彼女の声じゃないのに、彼女の声に似た響きだった。
窓の外では、雨が途切れなく落ちている。
通勤時間なのに、街は妙に静かだった。
世界は、彼女の死を知らないまま、いつも通り動いている。
――彼女が死んだ
その言葉は、現実味がなかった。
彼女はいつも、疲れていた。
彼女との関係は…俗にいう不倫だった。
言い訳の余地もない。
家庭のある女と、独り身の男。
誰も幸せにならないと最初から分かっていた。
それでも続いたのは、彼女が何も求めなかったからだ。
「無理しないで」
「今日はここまでにしよ」
彼女は、いつも引き際を知っていた。
俺に未来を迫らず、
自分の孤独だけを、少しだけ分けていく。
俺はその優しさを、
都合の良さと履き違えていた。
ある夜、彼女は珍しく弱音を吐いた。
「ねえ、私がいなくなったら、困る?」
冗談めいた口調だった。
ワイングラスを揺らしながら、
答えを期待していないふりをしていた。
俺は笑ってごまかした。
「縁起でもないこと言うなよ」
そんなことは、
考えたこともなかった。
困る、というのは、
生活が崩れるとか、
時間の使い方が変わるとか、
そういう意味だと思っていたから。
最後に会ったのは、三ヶ月前だ。
彼女は少し痩せて、
笑う回数が減っていた。
「最近、眠れなくて」
そう言ったきり、それ以上は話さなかった。
俺も深く聞かなかった。
聞けば、何かを決めなければならなくなる。
決めることから、俺はずっと逃げていた。
その日、別れ際に彼女は言った。
「ねえ、ちゃんと生きていてね」
意味が分からなくて、聞き返そうとした。
けれど彼女は、もう背を向けていた。
あれが、最後の言葉だった。
葬儀には行かなかった。
正しくは行けなかった。
名前を呼ばれない立場で、
誰の隣にも立てない自分を、
想像するだけで吐き気がした。
だから俺は、
彼女が亡くなった日の夜、
一人で酒を飲んだ。
何杯飲んだか分からない。
酔っても、涙は出なかった。
代わりに、
部屋の中の音が、ひとつずつ消えていった。
冷蔵庫の音。
時計の秒針。
外を走る車の気配。
最後に残ったのは、
自分の呼吸だけだった。
――困る、って、こういうことか。
生活は続く。
仕事もある。
食事も取れる。
それでも、
彼女がいた時間だけが、
切り取られたみたいに空白になっている。
スマホの履歴に、
彼女の名前はもうない。
消したのは、俺だ。
亡くなったからじゃない。
残しておけなかったから。
引き出しの奥に、
彼女が忘れていった鍵がある。
どこの鍵か、最後まで聞かなかった。
聞いてしまったら
彼女の生活に踏み込むことになる気がした。
踏み込まなかった結果が、これだ。
雨はまだ降っている。
止む気配はない。
俺は窓を開け、
濡れた空気を部屋に入れた。
冷たい。
けれど、嫌じゃない。
彼女はもう、
何も言わない。
責めない。
許さない。
待たない。
生きているのは、俺だけだ。
選ばなかった男だけが、
こうして音のない部屋で、
彼女の不在を反芻している。
後悔という言葉は、
あまりに整いすぎている。
これは、後悔じゃない。
罪悪感でも、愛情でもない。
ただ、
もう二度と届かない声が、
耳の奥で鳴り続けているだけだ。

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