6人が本棚に入れています
本棚に追加短編読切**『未完の温度』
彼と最後に会ったのは、
春が終わる少し前だった。
約束したわけではない。
ただ、いつもの時間に、いつものカフェに行ったら、
彼がいた。
ただそれだけだ。
私たちはそういう関係だった。
「来ると思ってた」
彼はそう言って笑った。
その笑顔を、私はもう何年も見ている。
コーヒーを二つ頼み、窓際の席に座る。
他愛のない話をした。仕事の愚痴、最近観た映画、
共通の友人の噂。
どれも、私たちにとって安全な話題だった。
沈黙が訪れるたび、私は思う。
この人に恋をしたのは、いつだったのだろう、と。
はっきりした瞬間は思い出せない。
気づいたときには、
もう引き返せない場所に立っていた。
彼は、私を大切にしてくれる。
困ったときは必ず助けてくれるし、
夜遅くなれば「ちゃんと帰れた?」と連絡をくれる。
誕生日も覚えてくれている。
けれど彼は「そこまで」で留まったまま‥
それ以上踏み込まない。
触れない。
越えない。
その距離が、私たちを
長く繋ぎとめていたのかもしれない。
「来月さ、引っ越すんだ」
唐突に、彼が言った。
スプーンがカップに触れて、乾いた音を立てる。
「……そうなんだ」
それ以上、言葉が続かなかった。
引っ越し先を聞くべきだったのか、
理由を尋ねるべきだったのか。
分からないまま、私は砂糖を入れた。
「遠くはないよ。電車で三十分くらい」
彼は、私を安心させるように言う。
その言い方が、胸に刺さった。
三十分。
それは、会えない距離じゃない。
でも、会わなくても困らない距離だ。
「そっか」
私はそれだけ答えた。
恋人なら、寂しいと言えた。
友だちなら、祝福できた。
私は、そのどちらでもなかった。
窓の外で、花びらが一枚、歩道に落ちた。
誰にも拾われず、風に押されて、端へ寄っていく。
「……ねえ」
彼が、少しだけ声を落とす。
「もしさ、俺たちが出会ったのが、
今じゃなかったら……どうなってたと思う?」
心臓が、遅れて音を立てた。
冗談のような口調。
でも、視線は真剣だった。
私は答えなかった。
答えられなかった。
もしも、なんて仮定は、しない。
してはいけない、そう思った。
「分かんない…」
ようやく出た声は、思ったより冷静だった。
「そうだよな」
彼は笑って、話題を変えた。
その切り替えの早さに、私は救われ、
同時に突き放された気がした。
夕方になり、店を出る。
駅までの道を、並んで歩く。
いつもなら、ここで別れる。
改札の手前で、軽く手を振って。
今日は、少しだけ歩幅を緩めた。
その変化に、彼は気づかない。
私は思う。
この感情は、標本みたいだ、と。
触れれば壊れる。
閉じ込めれば、形だけ永遠に
美しいまま残る。
生きてはいないけれど、
死んでいるとも言えない。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ」
彼が言う。
「うん」
それだけでだった。
けれど、それで十分すぎるほど、
私たちは満ちていた。
彼が背を向け、改札を抜けていく。
私はその背中を見送りながら、ひとつだけ確信する。
この恋は、始まらなかった。
その代わり終わりもしない。
友情という名札をつけたまま、
私の中で、静かに保存されていく。
歩き出す人波に混じりながら、
私は初めて、少しだけ泣いた。
声を出さずに。
誰にも気づかれないように。

最初のコメントを投稿しよう!