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コツコツと、煉瓦敷きのカフェに耳障りな音が響く。
その足音はわたしのテーブルの前で止まり、ヒールの持ち主は向かいの席に腰を下ろした。
「久しぶりね、元気にしてた?」
余計なお世話だ。
わたしは開いていた本を閉じ、彼女の目を見た。
「お陰様で。あなた、手に怪我してるの?」
パッと目を上げた時、その手の甲に巻かれた真っ白な包帯が、発光して見えた。
彼女は心做しか表情を曇らせ、何かを恐れるように、包帯の巻かれた左手をそっと、庇った。
「実はね、これのことで話があるの」
彼女は、わたしと彼の共通の友人だった。
テーブルの上にさらりと、表面のザラついた真っ白な包帯が落ちていく。彼女は包帯を器用に外した。
そして隠すように左手を右手で庇ったあと、思い切ったように、わたしの目の前にその手を差し出した。
その手の甲には、醜い、黒い痣が広がっていた。
「これ、笹岡くんにつけられたの」
言われたことがわからなかった。
笹岡くんはわたしの交際相手だけど、暴力的な人ではない。
「少しは気づいてたでしょう? わたしと、笹岡くんのこと」
彼女はそう言うと、短い息を吐いて、足を組み直した。
「わたしね、笹岡くんと会ってたのよ、度々。あなたに内緒でね。彼、あなたへの想いが冷めてきたように感じるんだって、率直にそう言ったわ。覚えがあるんじゃない?」
カップをソーサーに戻す時、カタンとそれは音を立てた。
「わたし、言ってあげたの。あなたには芯が冷めたところがあるって。だから、どんなに近づこうと思っても、例えどんなに手を伸ばしても、あなたを捕まえることはできないのよって。あなたを捕まえるなんて、所詮、はなからできないことなのよって」
言われた通りだった。
わたしの心は激情に揺らされることなく、芯から温度を失っていった。
思いは縮まって、心の片隅でくしゃくしゃに丸まって落ちた。
「この手はね、⋯⋯彼がわたしに手を伸ばした時、彼の指先が触れたところが黒くなったの。もちろん、彼の手にインクがついてたわけじゃないわ。
でもこんなに黒ずんで、何回、水で洗っても、どんなに強く擦っても取れないの。こんな、汚らしい!
それでも、彼がわたしに触れようとした跡には代わりはないのよ。
いい? 彼はわたしのこの手に触れたの。もし、この痣ができなかったら、どうなっていたのか考えてみて。
きっとわたし、赤い痣でいっぱいに染まってたわ。わたし、身体中に赤い痣を残されても構わないと思ってるの。次に彼がわたしに手を伸ばした時、――もしもこんな痣ができないなら、わたし、彼を奪うわよ、あなたから。
だってあなたにはこの穢らわしい痣さえないんだもの」
わたしは自分の左手を、テーブルの下で見つめた。
当たり前だけど、そこには痣はなかった。
彼女の黒い痣は禍々しがったけれど、それでもそこに想いの欠片が染みついているように見えた。
もう、何日も彼に触れていない。
実際、手も繋がない日々がどれくらい続いていたのか。
窓の外に黄色いプラタナスの葉が落ちていた。風に吹かれて、カラリと飛ばされた。
◇
家に戻ってもわたしは、彼女の手の痣について考えていた。
彼の大きな手が、そのよく知った太い指が、彼女の手の甲にそっと触れる――。
わたしの心の泉が、波だってさぁっと色を変えた。なかったことにはならない。
彼の指先は、確かに彼女に触れたんだ。
それは、心の中に真実として、ことりと落ちた。
潮時だ。
◇
彼の手にはキュッと、ツヤのある皮の手袋が嵌められていた。その手袋は、彼の品の良いコートによく似合っていた。
彼はコートを脱いでも、その手袋を外すことはなかった。わたしはそれの意味するところを知った。
「それで、用は何かな?」
「”痣”についての話を聞きたいと思って」
わかりやすく、彼の顔が酷く歪んだ。琥珀色の紅茶に、くすんだミルクのポーションが輪を描いて広がっていく。
彼の目を見ない。
努めて冷静に、話を進める。
「なんの話かな?」
「昨日、わたしのところに佳奈さんが来て、そして包帯を解いて見せてくれたのよ、痛々しい真っ黒な痣を」
「佳奈が⋯⋯!」
ふぅと短いため息をつく。
カラカラに干上がったプラタナスの葉は、すっかり生気を失い、わたしのため息に飛ばされた。
「⋯⋯佳奈が。そうか、信号を渡ろうとした時に手を引いて、それで渡り終わったところで」
彼はまるで用意したかのような台詞を、一語ずつ確かめるように訥々と話した。
「僕も驚いたよ。手を離した瞬間、彼女の手が真っ黒に染まっていて。彼女が小さな悲鳴を上げたんだ。最初、なんのことかわからなくてそれで⋯⋯」
「それで?」
「⋯⋯もしかしたらって話になって、それで、念の為、注意深く、彼女の痣に触れたんだ。そうしたら痣が広がって⋯⋯」
この人は、嘘をついている。
彼女は流暢にこの話をわたしにした。それに対して、彼の話し方は歯切れが悪く、嘘だと思いたい気持ちを拭きさっていった。
想像する。
彼女のほっそりした女性らしいその手に、欲を持った男の手を乗せるところを――。
ツキンとこめかみが痛む。
なぜわたしの身体に、痣がないんだろう? 長いこと付き合って、もう気持ちが彼女に流れてしまったから?
痣のことなんて、どうでも良かった。
触れられない身体に、火のついたような欲望を感じた。
深く呼吸をする。彼と過ごした2年ほどの月日が頭を巡る。
『君の手は、白磁のように冷たくて美しいね。日に焼けないように、手袋をした方がいいよ』
そう言って、テーブルに何となく置いていた左手に、そっと重みのある手を乗せた。
ああ、そんなことってあるものなんだな⋯⋯。
一息に紅茶を飲み干す。
カップからは濃厚な紅茶の香りが、むわっと立ち上る。ソーサーにカチャンとカップを戻す。ティースプーンが、小さく跳ねる。
「わたしの手で、試してみない?」
その驚きを隠せない顔に、見せつけるようにくるくると袖をまくって、右手を差し出した。
まるで採血を待つ患者のように、前腕の内側を晒して。
午後の日差しが、暖かに腕を照らす。
「君、なんてことを⋯⋯」
「わたしの腕にも触ってみない? 同じことが起こるとは限らないじゃない」
そうだ。
もしかしたら、わたしの腕は白いままかもしれない。
わたしたちの間にあった何かが、すっかり消えてしまったというのなら。
まるでリトマス紙のように、彼に腕を見せつける。
彼は迷って、迷った上に渋々と右手の手袋を脱いだ。その人差し指の先は、ペン先のように黒かった。
一連の話が『よくできた嘘』ではないことが、証明された。
左手が、わたしの手首を固定し、右手の人差し指が、静かに、まるで注射をする時のような慎重さで、細い腕に下ろされる。
スローモーション。
すべてが滑らかに滞ることなく、行われる。
あ、と声がこぼれた。
痛みはなかった。ほんの少し、熱かったかもしれない。
その指先がたどり着いたわたしの真っ白な腕の内側が、一滴の墨を落としたかのように、静かに黒く侵食された――。
痣だった。
彼の話も、彼女の話も、嘘ではなかった。
涙がつぅと、頬を伝った。
(了)

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