第一幕:予期せぬ再会

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第一幕:予期せぬ再会

=== 12月20日 午前10時30分(ひとみ) === 「さゆり、もう少しだからね」 生後5ヶ月の娘を抱いて、私はパリ15区にある小児科クリニックの待合室に座っていた。今日は定期検診の日だ。窓の外には、早くもノエル(クリスマス)の飾りつけが施された街並みが広がっている。さゆりは私の胸に顔をうずめ、小さな手で私の服をぎゅっと掴んでいた。最近始まった人見知りのせいか、外に出るとこうして私にしがみついてくる。その小さな温もりが、愛おしくて仕方ない。 真一に似た切れ長の瞳。私の面影を残す小さな鼻。この子は、私たちの愛の結晶だ。禁断の関係から生まれた命だけれど、この子を産んだことに後悔は一度もない。 「ササキ・サユリちゃん」 フランス語訛りの看護師に呼ばれ、診察室に入った。体重、身長、問診。全て順調だ。「Tres bien(とても順調です)。次回は1月ですね。良いお年を」医師の言葉に安堵し、クリニックを後にした。 時計を見ると、もう11時を回っている。真一は在宅勤務のはずだ。 「パパにお土産、買って帰ろうか」 私はさゆりをベビーカーに乗せ、冷たい風の中をメトロの駅へと急いだ。 === 同日 同時刻(真一) === パリ6区、サン=ジェルマン=デ=プレ。 歴史ある石畳の街並みに、真一のアパルトマンはある。そのリビングで、真一はふとパソコンの手を止めた。 画面には東京本社とパリ現地法人とのやり取りが並んでいる。この環境に慣れるまで半年かかったが、今ではフランス語での業務も板についてきた。 ふと、カレンダーを見る。12月20日。クリスマスまであと数日だ。 今年は、ひとみとさゆりと過ごす初めてのクリスマス。何か特別なことをしたいと考えていた。 「そうだ、予約の確認を」 真一はジャケットを羽織り、部屋を出た。 アパルトマンから徒歩3分。ボナパルト通りには、日本でも有名なパティスリー『ピエール・エルメ』の本店がある。ここのイスパハン(バラとライチのケーキ)はひとみの大好物だ。クリスマスケーキの予約確認と、今日のお茶菓子を買うために、昼休みの混雑前に行っておこうと思ったのだ。 外は身を切るような寒さだったが、街はクリスマスの活気に満ちている。 店の前に行くと、ショーウィンドウには宝石のようなマカロンやチョコレートが飾られていた。 「わあ、やっぱり本店は違うなぁ……」 ふと、横から日本語が聞こえた。観光客だろうか。 何気なく視線を向けた真一の足が、凍りついた。 ショーウィンドウを覗き込んでいた女性が、ガラスに映った真一の姿に気づき、ゆっくりと振り向いた。 白いコートに、赤いマフラー。記憶の中より洗練され、大人びているが、その屈託のない笑顔は変わっていない。 「……真一、くん?」 心臓が跳ね上がった。 篠宮彩乃(しのみや あやの)。 かつて、ひとみの会社の新入社員だった女性。そして、僕がまだ大学生で、ひとみの会社でインターンをしていた頃、僕に好意を寄せてくれていた女性だ。 「えっ、嘘……本当に真一くん?」 彩乃が目を丸くして近づいてくる。「どうしてここに?」 「僕は、近所に住んでて……篠宮さんこそ」 真一の声は、自分でも分かるほど動揺していた。動揺の理由は、単なる偶然への驚きだけではない。 4年前の記憶が蘇る。 当時22歳だった彼女は、若さゆえの真っ直ぐさで僕にアプローチしてきた。そして、僕がそれを拒んだ時、彼女は鋭い直感で言い放ったのだ。『真一くんの好きな人って、もしかして……』と。 彼女は、僕とひとみの関係を疑っていた数少ない人物だ。「若さ」という武器を持った彼女の存在は、当時、ひとみにとって最大の脅威だった。 「私、出張でパリに来てるの!」 彩乃は興奮したように店の看板を指さした。 「ここのクリスマス限定ショコラ、どうしても買いたくて。ガイドブック見て来たんだけど……まさか、こんなところで会えるなんて!」 偶然。本当に偶然なのか? この店は有名だ。日本人が来てもおかしくはない。 しかし、真一の背筋に冷たいものが走る。僕たちが過去を捨てて逃げてきたこのパリで、よりによって彼女に会うなんて。 「真一くん、久しぶり! 元気だった?」 「ああ……久しぶりだね」 「すごい偶然。神様からのクリスマスプレゼントかも」 彩乃は無邪気に笑った。 「ねえ、立ち話もなんだし、もし時間あるならお茶でもしない?積もる話もあるし!」 真一は周囲を見回した。ここはアパルトマンのすぐそばだ。カフェに行くにしても、この通りはひとみが帰ってくるルート上にある。もし、ひとみがベビーカーを押して通りかかったら……。 それに、外は凍えるように寒い。彩乃の鼻先は寒さで赤くなっていた。 ここで断って怪しまれるより、手短に済ませたほうがいいかもしれない。思考が空回りする。 「……寒いですし、すぐそこが家なので。コーヒーくらいなら出せますよ」 言ってしまってから、真一は激しく後悔した。 魔が差したとしか言いようがない。「やましいことはない」と自分に証明するために、あえて余裕を見せようとしてしまったのか。それとも、かつての『疑いの目』を向けた彼女に対し、今の自分は『普通の生活』を送っていると見せつけたかったのか。 「えっ、いいの?」 彩乃の目が、探るように光った気がした。 「じゃあ……お言葉に甘えちゃおうかな」 彩乃が嬉しそうに微笑む。その笑顔の裏にあるものを、今の真一はまだ知る由もなかった。 === 同日 午前11時(真一) === 真一は彩乃をリビングに通した。 鍵を開ける際、心臓が早鐘を打っていた。ひとみとさゆりの痕跡。写真、おもちゃ、授乳クッション。 「どうぞ、適当に座って」 「お邪魔しまーす。わあ、素敵なお部屋!」 彩乃がコートを脱ぎながら周囲を見回す隙に、真一は棚に飾ってあった家族写真を素早く伏せた。だが、ベビーサークルや床のプレイマットまでは隠せない。 「コーヒーでいいかな?」 「うん、ありがとう」 キッチンに逃げ込み、コーヒーを淹れる。手が震えていた。なぜ家に上げてしまったんだ。彩乃は、かつて僕とひとみの関係を疑っていた。もし、ここで僕の妻がひとみだと知られたら……。 「へえ、真一くん、お子さんいるんだ」 リビングから彩乃の声がした。心臓が止まりそうになる。 コーヒーを持って戻ると、彩乃はソファにある小さなぬいぐるみを手に取っていた。 「あ、ああ……」 真一はカップをテーブルに置きながら、必死に言い訳を探した。 「友人の子をね、時々預かってるんだ。妻がベビーシッターの資格を持ってて」 苦しい嘘だ。しかし、彩乃は「ふうん」と言ってぬいぐるみを置いた。 「真一くん、日本での仕事辞めて、こっちに来たって聞いたけど」 彩乃がソファに座り、コーヒーに口をつける。 「今は何してるの?」 「エンジニアだよ。日本の会社の現地法人で」 「そっか。すごいね、海外で活躍してて」 彩乃の視線が、真一を真っ直ぐに射抜く。 「あの頃の真一くんとは、全然違うね。大人になったっていうか……自信がついた顔してる」 その言葉に、4年前の光景が重なる。インターン生だった僕に、彼女は眩しい笑顔で話しかけてきた。ひとみさんにはない「若さ」と「無邪気さ」で。 「彩乃ちゃんは?まだあの会社に?」 「うん。今はマーケティング部のチーフやってるよ。佐々木部長……あ、真一くんのお父様にはお世話になりっぱなし」 父の名前に、真一は息を飲んだ。 「そう、なんだ」 「今回の出張も、お父様の推薦で来られたの。パリの市場調査だって」 彩乃は悪気なさそうに言うが、真一の内心は穏やかではなかった。父と繋がっている。もし彼女が父に「真一くんに会いました」と報告したら……いや、父は僕たちの居場所を知っているが、彩乃に会ったと知ればどう思うか。 「ねえ、真一くん」 彩乃がカップを置き、身を乗り出した。口紅の跡が、カップの縁に赤く残る。 「……幸せ?」 唐突な問い。 「え?」 「今、幸せ?……奥さん、いるんでしょ?」 その目は笑っているようで、奥底に鋭い光を宿していた。かつて僕に向けられた、あの疑念の光。 「ああ、幸せだよ」 真一は努めて平静に答えた。 「妻を愛してる」 彩乃は数秒間、真一を見つめ、やがてふっと力を抜いて笑った。 「そっか。よかった」 その笑顔が、どこか寂しげに見えたのは気のせいだろうか。 「さて、そろそろ行かなきゃ」 彩乃が立ち上がる。 「長居しちゃってごめんね。突然だったのに」 「いや……元気そうでよかった」 「連絡先、交換してもいい?またお茶したいな」 断る理由はなかった。スマホを取り出し、連絡先を交換する。 玄関まで見送り、ドアが閉まった瞬間、真一はその場に崩れ落ちそうになった。 やってしまった。 家に上げてしまった。嘘をついてしまった。 そして、リビングのテーブルには、彼女が口をつけたコーヒーカップが残されている。 その時、玄関の鍵が開く音がした。 「ただいまー。さゆり、寒かったねえ」 ひとみの声だ。 真一は弾かれたようにリビングへ戻り、カップを隠そうとした。だが、遅かった。 「あ、おかえり」 真一が振り返ると、ベビーカーを押したひとみがリビングに入ってくるところだった。 彼女の視線が、テーブルの上の二つのカップに吸い寄せられる。 片方のカップの縁に付いた、鮮やかなピンク色の口紅の跡に。 「……誰か、来てたの?」 ひとみの声が、微かに震えていた。

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