30人が本棚に入れています
本棚に追加第二幕:すれ違い
=== 12月21日 朝(ひとみ) ===
さゆりの泣き声で目が覚めた。
時計を見ると、午前5時。昨夜は3時間おきに起きた。授乳、おむつ替え、抱っこ。その繰り返し。体が重い。
隣を見ると、真一はぐっすり眠っている。
昨日から、何か様子がおかしい。
「知り合いが来た」
それだけ。名前も、どんな関係かも教えてくれない。
聞けば良かったのに。でも、聞けなかった。
聞くのが怖かった。
ベッドから起き上がり、さゆりを抱き上げる。小さな体が、私にしがみついてくる。
「お腹空いたのね」
授乳クッションを用意して、ソファに座る。さゆりが必死に吸い付いてくる。その小さな口が、愛おしくて、でも同時に……疲れも感じる。
5ヶ月。産んでから5ヶ月。
体型は、まだ戻っていない。お腹のたるみ。太ももの太さ。鏡を見るたび、ため息が出る。
真一は「気にしなくていい」と言う。でも、本当にそう思っているのだろう
か。
昨日、家に来た女性。
若いのだろうか。綺麗なのだろうか。
口紅の跡。薄いピンク色。
その色が、頭から離れない。
授乳が終わり、さゆりを寝かしつける。また眠りについた小さな顔を見つめる。
この子のためなら、何でもできる。
でも……女としての自分は、どこに行ってしまったんだろう。
=== 同日 朝(真一) ===
会社からメールが来た。
「今週中に仕上げてほしい案件がある」
急ぎの仕事。年末で皆が慌ただしくなっている。
返信を打っていると、スマホが震えた。
梨花さんからのメッセージ。
「昨日はありがとうございました。パリ、素敵な街ですね。真一さん、もし時間があれば、今日かお茶できませんか?」
既読をつけてしまった。
返信しないわけにはいかない。でも、何と返せば……
「今日は仕事が立て込んでいて……」
送信。
すぐに返事が来た。
「そうなんですね。じゃあ、明日は?」
断り続けるのも不自然だ。
「明日なら……午後なら少し時間が作れるかもしれません」
送信してから、後悔した。
なぜ、会ってしまうのか。
リビングから、さゆりの泣き声が聞こえた。ひとみが優しく歌を歌っている声。この幸せを守りたいのに、嘘をつく。
矛盾している。
=== 同日 夜(ひとみ) ===
同日 夜
夕食の支度をしながら、私は真一の様子を横目で見ていた。
スマホを何度も確認している。仕事のメールだろうか。それとも……
「今日、忙しかった?」
できるだけ自然に尋ねる。
「うん……年末で案件が立て込んでて」
「そう……」
会話が続かない。
以前は、もっと色々話したのに。仕事のこと、さゆりのこと、パリの街のこと。
いつから、こんなに距離ができたんだろう。
「あ、そうだ。明日、午後から少し外出するかもしれない」
真一が唐突に言った。
「外出?」
「仕事の……打ち合わせで」
仕事。
でも、真一の目が泳いでいる。
嘘をついている。
「……そう。分かった」
それ以上、聞けなかった。
=== 12月22日 午前11時(真一) ===
PCの画面には、彩乃からのメールが表示されている。
『昨日は突然ごめんね!
でも会えて本当に嬉しかった。真一くん、もしよかったら今日か明日、少し時間作れない?
お父様から預かった話もあるし、ゆっくり話したいな』
「父から?」
真一の手が止まる。
父の名前を出されると、無視できない。と同時に、胸の奥に鉛のような重たい痛みが広がる。
あの日、父からひとみさんを奪って家を出て以来、まともに言葉を交わしていない。
どう断るか迷っていると、スマホが震えた。
表示名は「父」。
心臓が早鐘を打つ。
一瞬、着信を拒否したい衝動に駆られた。合わせる顔がない。何を言われるか分からない。
だが、もし彩乃の件で緊急の用事だとしたら……。
真一は乾いた唇を舐め、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「……真一か」
数年ぶりに聞く父の声。
それは記憶の中よりも低く、そして冷ややかだった。以前のような父親としての温かさはなく、他人行儀な硬さが混じっている。
「……父さん」
「突然すまない。個人的に連絡するつもりはなかったんだが、緊急の用件があってな」
父の言葉が、真一の胸を刺す。
『連絡するつもりはなかった』。
それが父の本音だ。当然だ。自分の妻を奪った息子になど、話したくもないだろう。
「……はい」
「単刀直入に言う。篠宮彩乃から、接触はあったか?」
「……はい。昨日、偶然会いました」
電話の向こうで、父が舌打ちをするような気配がした。
「偶然、か。やはりそうか」
「どういうことですか」
「実は今、私もパリに来ている」
「えっ……」
「市場調査の視察だ。……勘違いするなよ。お前たちに会いに来たわけではない」
突き放すような冷徹な響き。
真一は受話器を握りしめたまま、言葉を失った。父が、同じパリの空の下にいる。すぐ近くに。けれど、会うつもりはないと明言された。
許されていない。その事実が、改めて重くのしかかる。
「篠宮彩乃が、私の手紙の控え……お前たちの住所を見た形跡がある。彼女は確信犯だ。お前たちの居場所を知った上で、偶然を装って近づいている」
「……住所を」
「彼女の狙いは分からない。だが、彼女がお前たちに対して抱いていた感情……そしてその執着心を考えると、楽観はできないと思ってな」
父の声がわずかに揺らいだ。
「……ひとみは、息災か」
不意に出たその名前に、真一の心臓が跳ねた。
「は、はい。元気です。娘も……」
「そうか」
父は短く遮った。それ以上は聞きたくない、というように。
「……いいか、真一。私はまだ、お前たちを許したわけではない。顔も見たくないというのが本音だ」
父の声には、隠しきれない苦渋が滲んでいた。
「だが、彩乃の件でひとみや子供に危害が及ぶのは……寝覚めが悪い。それだけだ」
心配している。けれど、許せない。
その葛藤が、痛いほど伝わってきた。
「彩乃には気をつけるんだな。彼女は、私が知る限り、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない女だ」
「……分かりました」
「用件はそれだけだ」
「あ、父さん!」
切られそうになり、真一は思わず叫んだ。
「……教えてくれて、ありがとうございます」
長い沈黙。
電波の向こうで、父が短く息を吐く音が聞こえた。
「……切るぞ」
プツン、と通話が切れた。
真一はしばらくスマホを耳から離せなかった。
父の警告。そして、拒絶。
「会いに来たわけではない」という言葉が、逆に「近くにいるのに会えない」という現状の歪さを浮き彫りにしていた。
(父さんは、まだ苦しんでいる……)
彩乃の脅威。そして、解決していない父との確執。
二つの重圧が、真一の肩に重くのしかかった。
=== 同日 午後2時(真一) ===
カフェで梨花さんと待ち合わせた。
約束の時間より少し早く着いてしまった。コーヒーを注文し、窓際の席に座る。
頭の中は、父との電話でいっぱいだった。
梨花さんが入ってきた。白いコートを着て、髪をきれいにまとめている。笑顔で手を振る。
「真一さん、お待たせしました」
「いえ、今来たところです」
嘘だ。20分前から待っていた。
「注文いいですか?」
梨花さんがカフェオレを頼む。
「パリのカフェ、おしゃれですね」
「そうですね」
「真一さん、よく来るんですか?」
「たまに……」
ひとみと来たことがある。さゆりをベビーカーに乗せて、三人で。
「真一さん、パリでの生活、本当に楽しそう」
梨花さんが微笑む。
「楽しそう……ですか?」
「ええ。表情が柔らかくなった気がします」
「……そうですか」
「インターンの時は、もっと……緊張してた感じでしたけど」
4年前。ひとみへの気持ちに気づき始めた頃。
「今は、落ち着いてる」
梨花さんの目が、私を見つめている。
「……真一さん」
「はい」
「クリスマスイブ、ご予定は?」
心臓が跳ねた。
「……予定が、あります」
「そうなんですね」
梨花さんの表情が、一瞬だけ曇った。
「ご家族と……ですか?」
「……」
答えられなかった。
家族。
そう、ひとみとさゆりは、私の家族だ。
でも、ここでそれを言ってしまっていいのか。
「……ええ、まあ」
曖昧に答えた。
梨花さんは、何かを察したような顔をした。
「そうですか……」
少し寂しそうに微笑んだ。
「真一さん、幸せそうで……良かったです」
その言葉に、胸が痛んだ。
=== 同日 夜(ひとみ) ===
真一が帰ってきたのは、夕方6時過ぎだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
真一の顔を見る。どこか、疲れているような。いや、疲れている以上の何か。
「打ち合わせ、どうだった?」
「……うん、まあまあ」
それだけ。
詳しいことは何も話してくれない。
以前なら、「こんなことがあって」と色々話してくれたのに。
さゆりが、真一を見て手を伸ばした。
真一が抱き上げると、さゆりが嬉しそうに声を上げた。
その光景を見ながら、私の胸は複雑な感情で満たされた。
真一は良い父親だ。さゆりを愛している。私も愛してくれている。
でも……
何かが、変わった。
「ねえ、真一」
「ん?」
「最近、忙しいの?」
真一が、一瞬だけ体を強張らせた。
「……まあ、年末だから」
「そう……」
それ以上、聞けなかった。
聞いたら、何か取り返しのつかないことになる気がした。
=== 同日 深夜(ひとみ) ===
さゆりの夜泣きがひどかった。
何をしても泣き止まない。授乳しても、抱っこしても、歌を歌っても。
真一は、別の部屋で寝ている。明日も仕事があるから、と。
一人でさゆりをあやしながら、涙が溢れそうになった。
疲れた。
体も心も、限界に近い。
鏡に映る自分を見た。
疲れ切った顔。乱れた髪。膨らんだお腹。
私は……
女として、魅力があるのだろうか。
真一は、こんな私を……
窓の外を見ると、パリの街にクリスマスの飾りが輝いている。
もうすぐクリスマス。
でも、私の心は……どんどん遠くなっていく真一を感じていた。

最初のコメントを投稿しよう!