第二幕:すれ違い

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第二幕:すれ違い

=== 12月21日 朝(ひとみ) === さゆりの泣き声で目が覚めた。 時計を見ると、午前5時。昨夜は3時間おきに起きた。授乳、おむつ替え、抱っこ。その繰り返し。体が重い。 隣を見ると、真一はぐっすり眠っている。 昨日から、何か様子がおかしい。 「知り合いが来た」 それだけ。名前も、どんな関係かも教えてくれない。 聞けば良かったのに。でも、聞けなかった。 聞くのが怖かった。 ベッドから起き上がり、さゆりを抱き上げる。小さな体が、私にしがみついてくる。 「お腹空いたのね」 授乳クッションを用意して、ソファに座る。さゆりが必死に吸い付いてくる。その小さな口が、愛おしくて、でも同時に……疲れも感じる。 5ヶ月。産んでから5ヶ月。 体型は、まだ戻っていない。お腹のたるみ。太ももの太さ。鏡を見るたび、ため息が出る。 真一は「気にしなくていい」と言う。でも、本当にそう思っているのだろう か。 昨日、家に来た女性。 若いのだろうか。綺麗なのだろうか。 口紅の跡。薄いピンク色。 その色が、頭から離れない。 授乳が終わり、さゆりを寝かしつける。また眠りについた小さな顔を見つめる。 この子のためなら、何でもできる。 でも……女としての自分は、どこに行ってしまったんだろう。 === 同日 朝(真一) === 会社からメールが来た。 「今週中に仕上げてほしい案件がある」 急ぎの仕事。年末で皆が慌ただしくなっている。 返信を打っていると、スマホが震えた。 梨花さんからのメッセージ。 「昨日はありがとうございました。パリ、素敵な街ですね。真一さん、もし時間があれば、今日かお茶できませんか?」 既読をつけてしまった。 返信しないわけにはいかない。でも、何と返せば…… 「今日は仕事が立て込んでいて……」 送信。 すぐに返事が来た。 「そうなんですね。じゃあ、明日は?」 断り続けるのも不自然だ。 「明日なら……午後なら少し時間が作れるかもしれません」 送信してから、後悔した。 なぜ、会ってしまうのか。 リビングから、さゆりの泣き声が聞こえた。ひとみが優しく歌を歌っている声。この幸せを守りたいのに、嘘をつく。 矛盾している。 === 同日 夜(ひとみ) === 同日 夜 夕食の支度をしながら、私は真一の様子を横目で見ていた。 スマホを何度も確認している。仕事のメールだろうか。それとも…… 「今日、忙しかった?」 できるだけ自然に尋ねる。 「うん……年末で案件が立て込んでて」 「そう……」 会話が続かない。 以前は、もっと色々話したのに。仕事のこと、さゆりのこと、パリの街のこと。 いつから、こんなに距離ができたんだろう。 「あ、そうだ。明日、午後から少し外出するかもしれない」 真一が唐突に言った。 「外出?」 「仕事の……打ち合わせで」 仕事。 でも、真一の目が泳いでいる。 嘘をついている。 「……そう。分かった」 それ以上、聞けなかった。 === 12月22日 午前11時(真一) === PCの画面には、彩乃からのメールが表示されている。 『昨日は突然ごめんね! でも会えて本当に嬉しかった。真一くん、もしよかったら今日か明日、少し時間作れない? お父様から預かった話もあるし、ゆっくり話したいな』 「父から?」 真一の手が止まる。 父の名前を出されると、無視できない。と同時に、胸の奥に鉛のような重たい痛みが広がる。 あの日、父からひとみさんを奪って家を出て以来、まともに言葉を交わしていない。 どう断るか迷っていると、スマホが震えた。 表示名は「父」。 心臓が早鐘を打つ。 一瞬、着信を拒否したい衝動に駆られた。合わせる顔がない。何を言われるか分からない。 だが、もし彩乃の件で緊急の用事だとしたら……。 真一は乾いた唇を舐め、震える指で通話ボタンを押した。 「……もしもし」 「……真一か」 数年ぶりに聞く父の声。 それは記憶の中よりも低く、そして冷ややかだった。以前のような父親としての温かさはなく、他人行儀な硬さが混じっている。 「……父さん」 「突然すまない。個人的に連絡するつもりはなかったんだが、緊急の用件があってな」 父の言葉が、真一の胸を刺す。 『連絡するつもりはなかった』。 それが父の本音だ。当然だ。自分の妻を奪った息子になど、話したくもないだろう。 「……はい」 「単刀直入に言う。篠宮彩乃から、接触はあったか?」 「……はい。昨日、偶然会いました」 電話の向こうで、父が舌打ちをするような気配がした。 「偶然、か。やはりそうか」 「どういうことですか」 「実は今、私もパリに来ている」 「えっ……」 「市場調査の視察だ。……勘違いするなよ。お前たちに会いに来たわけではない」 突き放すような冷徹な響き。 真一は受話器を握りしめたまま、言葉を失った。父が、同じパリの空の下にいる。すぐ近くに。けれど、会うつもりはないと明言された。 許されていない。その事実が、改めて重くのしかかる。 「篠宮彩乃が、私の手紙の控え……お前たちの住所を見た形跡がある。彼女は確信犯だ。お前たちの居場所を知った上で、偶然を装って近づいている」 「……住所を」 「彼女の狙いは分からない。だが、彼女がお前たちに対して抱いていた感情……そしてその執着心を考えると、楽観はできないと思ってな」 父の声がわずかに揺らいだ。 「……ひとみは、息災か」 不意に出たその名前に、真一の心臓が跳ねた。 「は、はい。元気です。娘も……」 「そうか」 父は短く遮った。それ以上は聞きたくない、というように。 「……いいか、真一。私はまだ、お前たちを許したわけではない。顔も見たくないというのが本音だ」 父の声には、隠しきれない苦渋が滲んでいた。 「だが、彩乃の件でひとみや子供に危害が及ぶのは……寝覚めが悪い。それだけだ」 心配している。けれど、許せない。 その葛藤が、痛いほど伝わってきた。 「彩乃には気をつけるんだな。彼女は、私が知る限り、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない女だ」 「……分かりました」 「用件はそれだけだ」 「あ、父さん!」 切られそうになり、真一は思わず叫んだ。 「……教えてくれて、ありがとうございます」 長い沈黙。 電波の向こうで、父が短く息を吐く音が聞こえた。 「……切るぞ」 プツン、と通話が切れた。 真一はしばらくスマホを耳から離せなかった。 父の警告。そして、拒絶。 「会いに来たわけではない」という言葉が、逆に「近くにいるのに会えない」という現状の歪さを浮き彫りにしていた。 (父さんは、まだ苦しんでいる……) 彩乃の脅威。そして、解決していない父との確執。 二つの重圧が、真一の肩に重くのしかかった。 === 同日 午後2時(真一) === カフェで梨花さんと待ち合わせた。 約束の時間より少し早く着いてしまった。コーヒーを注文し、窓際の席に座る。 頭の中は、父との電話でいっぱいだった。 梨花さんが入ってきた。白いコートを着て、髪をきれいにまとめている。笑顔で手を振る。 「真一さん、お待たせしました」 「いえ、今来たところです」 嘘だ。20分前から待っていた。 「注文いいですか?」 梨花さんがカフェオレを頼む。 「パリのカフェ、おしゃれですね」 「そうですね」 「真一さん、よく来るんですか?」 「たまに……」 ひとみと来たことがある。さゆりをベビーカーに乗せて、三人で。 「真一さん、パリでの生活、本当に楽しそう」 梨花さんが微笑む。 「楽しそう……ですか?」 「ええ。表情が柔らかくなった気がします」 「……そうですか」 「インターンの時は、もっと……緊張してた感じでしたけど」 4年前。ひとみへの気持ちに気づき始めた頃。 「今は、落ち着いてる」 梨花さんの目が、私を見つめている。 「……真一さん」 「はい」 「クリスマスイブ、ご予定は?」 心臓が跳ねた。 「……予定が、あります」 「そうなんですね」 梨花さんの表情が、一瞬だけ曇った。 「ご家族と……ですか?」 「……」 答えられなかった。 家族。 そう、ひとみとさゆりは、私の家族だ。 でも、ここでそれを言ってしまっていいのか。 「……ええ、まあ」 曖昧に答えた。 梨花さんは、何かを察したような顔をした。 「そうですか……」 少し寂しそうに微笑んだ。 「真一さん、幸せそうで……良かったです」 その言葉に、胸が痛んだ。 === 同日 夜(ひとみ) === 真一が帰ってきたのは、夕方6時過ぎだった。 「おかえりなさい」 「ただいま」 真一の顔を見る。どこか、疲れているような。いや、疲れている以上の何か。 「打ち合わせ、どうだった?」 「……うん、まあまあ」 それだけ。 詳しいことは何も話してくれない。 以前なら、「こんなことがあって」と色々話してくれたのに。 さゆりが、真一を見て手を伸ばした。 真一が抱き上げると、さゆりが嬉しそうに声を上げた。 その光景を見ながら、私の胸は複雑な感情で満たされた。 真一は良い父親だ。さゆりを愛している。私も愛してくれている。 でも…… 何かが、変わった。 「ねえ、真一」 「ん?」 「最近、忙しいの?」 真一が、一瞬だけ体を強張らせた。 「……まあ、年末だから」 「そう……」 それ以上、聞けなかった。 聞いたら、何か取り返しのつかないことになる気がした。 === 同日 深夜(ひとみ) === さゆりの夜泣きがひどかった。 何をしても泣き止まない。授乳しても、抱っこしても、歌を歌っても。 真一は、別の部屋で寝ている。明日も仕事があるから、と。 一人でさゆりをあやしながら、涙が溢れそうになった。 疲れた。 体も心も、限界に近い。 鏡に映る自分を見た。 疲れ切った顔。乱れた髪。膨らんだお腹。 私は…… 女として、魅力があるのだろうか。 真一は、こんな私を…… 窓の外を見ると、パリの街にクリスマスの飾りが輝いている。 もうすぐクリスマス。 でも、私の心は……どんどん遠くなっていく真一を感じていた。

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