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本棚に追加冷たい雨が、東京の夜を無音で覆っていた。
真壁は、廃墟となった化学工場の一室で、椅子に縛られた男を見下ろしている。
佐伯。
十年前、真壁の妻と娘を奪った――そう信じてきた男。
だが、その顔を見つめているうちに、真壁の胸に、微かな違和感が生まれた。
怯えが、ない。
恐怖に歪むはずの表情は、奇妙なほど落ち着いており、まるで医師の診察を受ける患者のように、真壁の指先の動きを観察している。
「……そんな目で見るな」
真壁が低く言うと、佐伯は薄く笑った。
「十年だ。十分、観察させてもらった」
その言葉が、耳に残る。
真壁は、この日のためにすべてを捧げてきた。
医学、薬学、神経。
痛みを与えるためではない。
逃げ場を奪い、現実からも逃がさないためだ。
それなのに――
処置を進めるほど、真壁の内側が静かに軋み始める。
佐伯の息遣いは乱れず、視線は曇らない。
まるで、苦痛が「予定通り」であるかのようだった。
「……君は、優しいな」
不意に、佐伯が呟いた。
真壁の手が止まる。
「俺を憎み切れない。
その曖昧さが、君らしい」
「黙れ」
声に、わずかな震えが混じった。
作業の合間、真壁の脳裏に、何度も同じ光景が浮かぶ。
笑う妻。
手を振る娘。
――だが、その映像は、どこか歪んでいる。
妻の声が、思い出せない。
娘の顔が、ぼやける。
「……おかしい」
呟いた瞬間、佐伯が静かに息を吐いた。
「ようやく、だ」
「何がだ」
「君が、自分の記憶を疑い始めた」
その言葉は、刃よりも深く真壁に突き刺さった。
「……お前が、殺したんだ」
真壁は言い聞かせるように言う。
「証拠も、証言も、全て揃っている」
佐伯は、首を振らなかった。
否定もしなかった。
ただ、穏やかに言った。
「君は、調べることに必死で、
“見ない”選択をしただけだ」
机の上の封筒を、顎で示す。
「そこにある。
君が十年間、開かなかったものが」
映像は、残酷ではなかった。
ただ、淡々と、真実を映していた。
ハンドルを握る妻の横顔。
異様なほど高揚した目。
後部座席で泣き叫ぶ娘の声。
そして――
「これで、終わり」
その一言。
真壁の中で、何かが音を立てて崩れた。
「嘘だ……」
そう言いながら、
真壁自身が、その言葉を信じていないことを理解していた。
佐伯の声が、背後から届く。
「君は、復讐者じゃない」
「黙れ……」
「君は、
誰かの嘘を信じることでしか、生きられなかった男だ」
遠くで、サイレンが鳴り始める。
佐伯は、満足そうに目を閉じた。
「僕はね、
君がここまで来るのを待っていた」
「……何を言っている」
「君が、
“最愛の家族のために人生を捨てた男”ではなく、
“何も知らず、何も守れなかった男”になる瞬間を」
真壁は、声を上げようとした。
だが――
喉が、動かなかった。
佐伯は静かに息を引き取った。
その顔には、恐怖も後悔もなかった。
ただ、完成した作品を見る芸術家のような安堵だけがあった。
床に落ちたメスが、微かに転がる。
真壁はそれを拾えず、
ただ、自分の両手を見つめていた。
血に染まった手。
だが、本当に汚れているのは――
その奥にある、空洞だった。
サイレンの音が近づく。
それでも真壁の耳には、
何一つ、音が届かなかった。
完

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