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道を歩いていて、ふと足が止まった。
小さな子どもを連れたカップルが、信号待ちをしている。子どもは退屈そうに足踏みをし、母親の手をぐいぐい引っ張っていた。父親が苦笑しながらスマホをポケットにしまい、子どもの頭をくしゃりと撫でる。
何の変哲もない光景。
ほんの数秒後には記憶からこぼれ落ちて、二度と思い出されることのない、そんな場面。
それなのに、胸の奥がじんと熱くなった。
昔の俺なら、目にも留めなかっただろう。街の雑踏に溶けた背景のひとつとして、意識の外を通り過ぎていっただけだ。
今は違う。
普通に働いて、誰かと恋をして、喧嘩して、仲直りして、やがて結婚して、子どもを作る。休日には公園に出かけて、信号待ちの間に子どもの髪を撫でる。
それがどれほど困難で、どれほど遠い道のりで、どれほど尊いことか。理解できる年齢になってしまった。
平凡な人生は、才能だ。
いや、偉業だ。
誰にでもできることじゃない。少なくとも、俺にはずっとできなかった。
隣を歩くエナコが、俺の視線の先を不思議そうに追って、小さく首をかしげた。
「どうしたの?」
本当に、どこにでもいそうな女の子だった。
派手でもなければ、影が薄いわけでもない。少し気が利いて、少し臆病で、とびきり優しい。笑うと目が細くなって、怒ると唇がほんの少しだけ尖る。そういう、ささやかな癖のひとつひとつが、俺には眩しかった。
平凡であるということが、どれだけ尊いことか。
「いや……」
言いかけて、やめた。こんなことを言葉にしたら、きっと重たすぎる。
だから代わりに、軽く笑ってみせた。
「俺たち、モブキャラだなって」
エナコは一瞬きょとんとした。それから、わざとらしく頬を膨らませて、俺の肩を軽く叩く。
「失礼だなあ。わたし、ちゃんと主役してるつもりなんだけど」
その反応まで含めて、完璧だった。
予測できる。安心できる。テンプレートで、だからこそ愛おしい。
――ああ、これだ。
俺はこれが欲しかったんだ。
普通の彼女。
普通の結婚。
普通の家庭。
波乱のない、穏やかな日々。朝起きたら隣に誰かがいて、「いってらっしゃい」と見送られて、「ただいま」と言って帰ってくる。そんな当たり前を淡々と積み重ねていく人生。
三十歳の誕生日までに結婚する。
子どもの頃から、ぼんやりと描いてきた人生設計。それが、ようやく現実になろうとしていた。
ポケットの中で、スマホが震える。
取り出して画面を見る。見知らぬ電話番号からのショートメール。
「いまからいくね」
ひらがな七文字。
句読点もない、簡素なメッセージ。
ショートメールを使うような知り合いに心当たりはない。今どき、こんな連絡手段を使う人間がいるだろうか。迷惑メールだ。そう判断して、心の片隅に追いやろうとした。
だが、その七文字は胸のうちに妙な粘つきを残した。
「いまからいくね」
スマホをポケットにしまう。
大丈夫だ。きっと、なんでもない。
俺もエナコの手を取って、歩き出した。
さっきの家族みたいになれる。きっとなれる。
そう信じていた。

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