君は銀の弾丸

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「“恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解(わか)っていますか”」  夏目漱石の「こころ」を音読する彼女の声に、僕は耳を傾ける。エレクトリック・ピアノのように特徴ある声色を一音たりとも逃さぬようにと、耳へ全神経を注ぎ込む。そのままずっと読んでいてもらいたい気持ちだったが、生徒ひとりに与えられた音読の範囲は限られていて、彼女の音読は程なくして終わってしまった。  自分は漱石と何の関係もないのに、さも漱石の全てを理解したかのように語り続ける教師の声をシャットダウンし、僕は頭の中で彼女の声を何度もリピートし続ける。  休み時間の教室の喧騒の中から、彼女の声を濾し取るのは骨が折れる。ただ、繰り返し聴き続ければ、いずれはボイスレコーダーなどを使わずとも、脳内で鮮明に再生できるようになるのだった。    僕が西川(にしかわ)あかねの声に耳を奪われるようになったのは、いつの頃からだろう。  入学当初の彼女は絶えず気怠そうな顔をしていて、周囲と積極的にコミュニケーションをとろうともしなかった。学校に遅刻したり、そもそも登校しない日さえあった。そのことや服装の乱れを教師に注意されても、いつもほとんど聞こえないような小声で返事をしていたし、僕も最初のうちはそんな彼女を気に留めることなどなかった。  ところが、いつの間にか西川は周囲のクラスメイトと普通に会話をするようになり、遅刻癖は相変わらずだったけれど、一日まるごと欠席する回数は減った。起きていることは少ないようだが、最近は授業にもちゃんと顔を出している。それまでの彼女はそもそも授業にいないことが多かったから、彼女が教科書を読み上げたり、教師から当てられた時に答える機会もほぼなかった。  しかし、彼女が授業へ出席するようになってからは、他の生徒と同様に音読をしたり、質問へ回答する機会が増えた(但し後者は、大半の返事が「分かりません」だ)。教科書は学校に置きっぱなしみたいだが、そのおかげで、彼女が教科書を忘れて音読をできない事態には絶対に陥らないことが、僕にとっては密かな幸運だった。  最初の頃はその声にしか意識がいかなかったものの、西川は決して外見も悪くはない事実に気づいた。ちゃらちゃらしてる女子が嫌いだったら多少苦い気持ちになるだろうが、僕の中にはそういった忌避感はなかった。なにより本人は自身の見てくれを殊更、鼻にかけたりすることもない。他人を馬鹿にしたり、いじめたりもしない。  良くも悪くも、同じ生徒相手ならば誰にだって平等に接していると思う。  僕のような目立たない存在に対しても、それは例外ではなかった。

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