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勝浦に足を運んだ一向がまず耳にしたのは本宮への唯一の道である川が氾濫しているという噂。
ヒノエの紹介で難無く宿を見つける事ができ、そこに腰を落ち着けていたのはいいが何日経っても一向に氾濫の治まる気配を見せないこの奇怪を何としてでも解決せねばと作を練っていた神子達の中に少々の焦りを感じ取った弁慶はいつもの婀かな笑みを見せながら
『明日にでも一度様子を見に行きましょう』と告げた。
皆がその意見に賛同して落ち着いてからは久々にのんびりできると各々好きな時間を過ごす。
九郎だけが最後まで多少の苛立ちを見せてはいたが景時や弁慶の宥めによりとりあえずは納得したようだった。
現状を動かすのは明日からになる。
ならばと九郎は庭へ出て鍛練を始めた。
それを見計らうように弁慶は景時に九郎を任せ宿を後にしある場所へと向かった。
那智大社の裏にある森の中で弁慶は一人黙々と薬草を摘む。
大人数が決して嫌いなわけではなかったがこういう一人の時間も悪くない。と、蝉の声や鳥の囀りに耳を傾けてはそれら全てに夏を感じる。
木に遮られて直接日の光が入らない木陰は彼の肌に心地良い涼を齎した。
弁慶は休憩がてら摘んだ薬草を入れていた篭を少し離すとその場に空を仰ぐように寝転がる。
人の声が随分と遠くに聞こえて、反対に鳥の鳴き声や木々のざわめきを近く感じながらふと、ここへ来る前に『涼しいからお昼寝ができる』と言った神子の言葉は間違いではないと一人緩やかに笑って見せた。
『何一人で笑ってんの?』
『ヒノエ…』
今の今まで眼の前にあった筈の木の緑と空の青の鮮やかな色彩が、覗き込んで来たヒノエにより一瞬で赤一色に変わって弁慶は思わず眉を顰めた。
『何?まるで俺には逢いたくなかったみたいな顔だね』
『別にそういうわけではありませんよ』
覗き込んでくるヒノエの頭を押しやりながら上体を起こすとその隣にヒノエは了解も得ずに腰を下ろす。
『薬草摘んで疲れたの?あんたも歳だね』
『そう思うならそっとしといて下さい。優しくないですね、君は』
皮肉に皮肉で返され今度はヒノエの眉に皺ができた。
それからはお互い特に何を言うでもなく、ましてや突然訪れた自分を咎めるでもなく沈黙を続ける弁慶にヒノエは聞こえない様に溜息を吐いた。
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