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本棚に追加 最終回の作業がすべて終わった。
脱稿というやつだ。
もうすぐ深夜二時になる。まあ、早かったほうだ。
俺はアシスタント二人を玄関まで見送る。
「三枝、今日も車だろ。加納さんを送っていってやってくれ。加納さんもそれでいいだろ?」
「はい、タクシー代浮くんで」
「みんな、今までありがとね」
先生が部屋の奥からそう言う。
椅子に座ったまま、天井を見あげて伸びをする。
「新垣先生のとこでも頑張ってね。みんなより年下だから、こことは違った苦労もあると思うけど」
そう言って、脱力して、動かなくなる。
「今までありがとうございました。次の連載決まったら、また呼んでくださいね」
三枝が言う。
俺はひやりとした。だが、先生はわりと普通のトーンで返事をした。
「んー、機会があったらよろしくー」
「チーフも、短い間でしたが、お世話になりました」
そう言ったのは加納さんだ。
「月刊アクシアでの連載、決まったんだろ。加納さんも頑張ってな」
「まあ、同人でやってたことの延長ですから。どうにかなると思ってます」
「そうか。二人とも、できる範囲で相談にも乗るし、プロアシとして手伝いにもいく。いつでも頼ってくれていいんだからな」
「じゃ、お疲れさまでした」
三枝が頭を下げた。
加納さんはそのかわりに俺の襟をつかみ、俺に顔を寄せて
「今夜こそバシッと決めてくださいよ」
そう言ってニヤリと笑った。
俺は不愛想にやんわりと加納さんを遠ざけた。
「お疲れ様でしたー」
軽い足取りで玄関から出て行った。
静かになった。
先生はさっきと同じ姿勢で天井を見上げている。動いていない。両腕だけがぶらぶら揺れている。
「チーフも、ありがとね。ほんとに」
先生はこの二か月、ほとんど自分で画いていない。編集部が確認済みのネームと、ひどく頼りない切れ切れの線で描かれたラフをもとにキャラを描き起こしていたのは俺だ。
先生は話さないが、俺にはなんとなく理由がわかっている。
「それを言うのは早いですよ。単行本の仕事もあるんだし」
「――うん、そうだね」
先生の声はどこかうつろだ。最初の月刊連載を描き終えたのだから、当然とも言えるが。
俺は無言で冷蔵庫を開け、ビール缶を二本取り出した。一本を先生の手元に置き、もう一本を持ったまま、先生の隣の席に腰掛けた。
「まあ、ひとまずお疲れ様ってことで」
「うん、お疲れ様」
俺は何も考えずにプルトップを開ける。見ていないふりをしていたが、先生は同じ缶を開けるのにまるまる一分はかかっていた。
「――えへへ、ごめんね。わたし、疲れてんのかな」
こういう時、俺はうまいことが言えない。
笑顔をとりつくろうことしかできない。
「病院の検査、どうだったんですか」
先生の目を見れないまま、そう尋ねた。
「うん、あのね――皮膚硬化症っていうんだって」
息が止まった。
俺はその病気を知っている。
近代美術を勉強していれば、誰でもその名前を知っているはずだ。
最初、手指の腫れぼったさやこわばりを感じる。
指が自由に動かせなくなる。
黒化や白化のような色素異常とともに、手、腕、体幹へと硬化が進んでいく。
場合によっては、呼吸さえ困難になる。水を飲むことさえ困難になることもある。
まだ治療法はない。
指定難病と呼ばれるもののうちのひとつだ。
「どれくらい進行してるんですか」
「あ、知ってる感じ? だいじょぶだよ、日常生活はそんなに困らない」
ビール缶を開けるのに一分もかかるのに?
「で、さ……シュウ君、お願い聞いてくれる?」
一年ぶりに下の名前で呼ばれた。つまり、告白してフラれたとき以来だ。
「単行本の仕事か」
「最終巻の表紙、描いて欲しい」
「俺でいいのか」
「シュウ君がいいの。他にいないの。読者もみんな納得してくれる」
「わかった、やる」
「ありがと。ごめんね」
「気にするな。自分のことだけ考えてろ」
「――自分のこと、か……」
もう気が抜けているであろうビールを、どこを見ているのかわからない顔で、彼女は口に運んだ。
「私、漫画家としては卒業なわけじゃん? 週刊連載一つと読み切り二つで、それが全部だって、確定しちゃったわけじゃん? それ思うとね……ああ、私ってこれだけか、って……必死に生きてきて、これっぽっちかって」
「さやか、やめろ」
俺も、彼女の名を呼んだ。
「俺の好きな漫画家を見下すようなマネは、誰にもさせない。それがおまえであっても許さない。今までのお前自身や、読者たちや、三枝や加納さんたち対してだって、それは失礼なことだ」
彼女は俺から顔を背けて、しばらく紡いていた。乱れた声で
「やめてよ。そういうの。マジで効くから。泣きそうになるから」
「悪い。ちょっと感情的になった」
「ちがうの、嬉しいの」
「そうか」
二人、しばらくの間無言だった。
軽くなったビール缶の残りを喉に流し込む。ぬるい。
「パウル・クレーって知ってるか?」
俺は不意にそんなことを言い出し、スマホをいじった。
「誰?」
「天使の絵で有名な人だ。こういうの。見たことないか?」
俺は検索した画像を見せた。
「あ、見たことある! かわいいよね、これ」
「クレーも、皮膚硬化症だった。この画像のやつ、『忘れっぽい天使』は、遺作だ。ほんとうに死の直前の作品だ」
そう言うと、さやかの顔がひきしまるのがわかった。
「なんか、想像できる。身体が動かない中で、ペンもちゃんと握れない中で、必死になにか描けるものを模索してたんだろうな」
「天使シリーズについて、クレー自身は何も言葉を残してないから、本当のところはわからないけれどな……でも、そういうことだ……生きてるかぎり足掻いていいんだ」
「私、病院のベッドから外を見ながら『私って可哀想』て言いながら毎日しくしく泣く予定だったのに」
「させねえよ、そんなこと」
「シュウ君ってSだよね」
「それが好みだっていうならSでもいいぞ」
「そうは言ってねえよ」
二人して、声を出して笑った。
安心して、涙が出た。
気が付くと、さやかの目にも光るものがあった。
「ありがとね。私のために泣いてくれる人なんて、シュウ君だけだよ……大好き」
「うん」
「なんだよ、感動薄いなぁ」
「感動が薄いのとリアクションが薄いのは違うんだよ」
「今でも、私のこと好き?」
「言わせんな、わかってんだろ」
「言ってよ」
言った。
立ち上がって、さやかの顎に手をかけて上向かせて、唇をかさねた。
ぱたん、と、倒れるように寄りかかってきた。
しばらく抱きしめていたら、いつのまにかおだやかな寝息が聞こえ始めた。
もうすぐ、夜が明ける。
俺は彼女のぬくもりを感じながら、ただ、窓を見つめていた。
了

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