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本棚に追加第5話 茜の新しい一歩
事件の狂騒がネットの海に沈み、季節が本格的な秋へと移ろい始めた頃。瀬戸伸也という名前は、少なくとも僕たちの日常からは完全に消え去っていた。だが、彼が残した爪痕が消えるわけではない。
茜は、結局元の学校への復帰を望まなかった。瀬戸が去り、彼が流した悪質な噂の「嘘」が証明されたとしても、あの校舎の廊下を歩くこと、教室の椅子に座ること自体が、彼女にとってはフラッシュバックを引き起こす苦痛の象徴となっていた。
僕と佑香、そして事情の核心を知らないふりを貫きながらも、娘の異変を察して必死に守ろうとしていた両親は、何度も話し合いを重ねた。茜の意思を最優先に考え、たどり着いた結論は「転校」だった。
幸い、都内には不登校や心の傷を抱えた生徒へのサポートが手厚い通信制の高校がいくつかあった。茜は自分で資料を取り寄せ、何度も見学に足を運び、自らの意志で1つの学校を選んだ。
「お兄ちゃん、私、ここでやり直してみたい」
そう言った時の彼女の瞳には、かつての濁りのない光が、少しずつ、しかし確かな力強さを持って戻り始めていた。
転校の手続きが完了した週末、僕と佑香は、お祝いという名目で茜を連れ出し、少し離れた街の大きなショッピングモールへ向かった。
「わあ、この服かわいい! 佑香姉ちゃん、見て見て!」
ショップの鏡の前で、新しいブラウスを体に当ててはしゃぐ茜。その姿を数歩後ろから眺めながら、佑香が僕の袖を軽く引いた。
「よかったね、勇人。茜ちゃん、本当に笑えるようになった」
「……ああ。まだ時間はかかるだろうけど、一歩ずつだな」
僕はポケットの中でスマートフォンに触れた。そこにはかつて、瀬戸の醜悪な真実が詰まっていた。今はもう空っぽのその端末を見つめる必要はない。僕が守りたかったのは、今目の前で笑っている、このありふれた、けれど尊い日常なのだ。
その日の帰り道、夕暮れに染まる公園のベンチで、茜がふと足を止めて僕たちに向き直った。
「お兄ちゃん、佑香姉ちゃん。……ありがとう」
「何がだよ。別に大したことしてないだろ」
「ううん。私ね、あの頃、本当に消えてしまいたいって思ってたの。自分の名前を呼ばれることすら恐怖だった。……でもね、お兄ちゃんが、何も聞かずにいてくれたこと。いつも通りに『飯食うか?』とか『お菓子あるぞ』とか、変に気を遣わずに普通に接してくれたこと……それが、何よりも救いだったの」
僕は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
妹を傷つけた男を、裏で冷酷に社会的に抹殺した。その事実を彼女は知らない。僕の中にあったのは、常に「直接的な救いを与えられなかった」という、拭いきれない無力感だった。だが、僕が選んだ「何も知らないふり」という不器用な優しさが、彼女にとっては、崩れそうな心を繋ぎ止めるための唯一の防波堤になっていたのだ。
「佑香姉ちゃんも。……毎日、どうでもいいような楽しいLINEを送ってくれたり、一緒に泣いてくれたりして。私、1人じゃないんだって、ずっと思えてたよ」
佑香が鼻をすすり、茜の手を優しく包み込んだ。
「何言ってるのよ。当たり前じゃない。私たちは、ずっと茜ちゃんの味方なんだから」
僕は、感情が溢れ出さないように、わざと意地悪な笑顔を作ってみせた。
「新しい学校、楽しみだな。……でもいいか、茜。もし次に彼氏ができたら、今度こそ真っ先に僕に紹介しろよ? 兄貴として、そいつに裏の顔がないか、1兆項目くらいのチェックリストで厳格に審査してやるからな」
「……何それ、最悪。お兄ちゃんの審査なんて、厳しすぎて誰も通らないよ!」
公園に、茜の明るい笑い声が響いた。それは、長い冬が終わり、ようやく芽吹き始めた春の息吹のようだった。

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