嘘みたいに、夢のようで
今は引っ越してしまったけれど、小さいころ、貴一君という同い年の男の子が近所に住んでいた。
「かわいいかわいい! りーちゃんはいちばんかわいい! りーちゃんは僕のいちばんのおんなのこ!」
ことあるごとに貴一君からそう言われ続け、その言葉は私の中の奥の奥、胸の中心にそっと柔らかい絹に包まれたように横たわっている。
幼稚園のころからずっと。
小学校にあがって一緒に登下校するようになって。
「かわいいりーちゃん、今日も一緒にあそぼーね」
そんな言葉で誘われては近くの公園で虫取りをしたりかくれんぼしたり、自転車の練習をしたりした。
たぶんきっと、パパと一緒に練習したことよりも貴一君と自転車の練習をした時間のほうが長い。
かくれんぼをしながらふたりで道ばたの花や草をながめて、結局かくれんぼなんて忘れて時間がたってしまったこともあった。探しにきたお母さんが『もう、梨紗も貴一君も夢中になりすぎよ』と呆れていた。
貴一君が、虫取り網を握りしめて蝉をつかまえようとしているときは、私も息をとめて見守った。たもをもって川縁にでかければ私もバケツを持って後を追った。
「かわいいりーちゃん、ありがとー」
そのたび、貴一君はにかっと笑った。土や泥で少し汚れた顔がくしゃりとくずれて私を見ていた。その笑顔が太陽みたいで、私も思わず笑い返す。坊主頭のてっぺんまで日焼けするくらい元気な貴一君。生き物や植物が好きで、『僕はイキモノのけんきゅうしゃになるんだ!』ってよく言っていた。覚えているよ。だってそういう時の貴一君の笑顔が一番眩しかったから。
鏡を見たって特別かわいいところなんてない、普通の顔の私。それなのにどうして私のことを『かわいいかわいい』と何度も言ってくれたのかはわからない。
でも貴一君が私のことをそう言い続けてくれたから、私の胸の中心はしなしなと力なくしおれることもなく、強くいられた。
貴一君は小学校5年生に上がるときにお父さんの仕事の関係で引っ越してしまった。それきり、もう連絡をとるすべはなくなってしまったけれども。
『かわいいかわいいりーちゃん! りーちゃんは僕のいちばんのおんなのこ!』
その言葉は私のお守りみたいになっている。
*
高校に上がって。
クラスのグループLINEで、少しごたごたがあるのは感じていた。
クラスで上位グループと言われているような女子達が、気に食わない子を入れないグループLINEをわざわざ作る。面白半分なのかわからない。気に食わない子に『あなたを仲間はずれにしてますよ』とわかるようにわざと、そういうことをする。何が楽しいのかわからないけれど。
気まぐれに標的は移り変わっていき、いつのまにか私の順番になったみたいだった。みんなの知っている集まりや持ち物や、そういう学校生活にないと困るものが私ひとりに知らされていないことが増えた。上位グループの女子達のクスクス笑う声や視線が、はっきりと私に向けられているのを感じた。
ばかみたい。
心の中で毒づく。そうして私は胸の中心にくるんである言葉を反芻する。
『かわいいかわいいりーちゃん! りーちゃんは僕のいちばんのおんなのこ!』
記憶の中で小学生のままの貴一君が、太陽みたいに笑って私に言ってくれるあの言葉を。
──うん、大丈夫。
みんなが放課後に遊びに行くことを知らなくたって。私は本屋さんに寄りたいんだから平気。家で図鑑をながめるのも楽しい。
強がり、かもしれないけれど。貴一君の言葉を思い出すと、自然にそんな前向きな気持ちになった。
貴一君が言ってくれた『かわいいかわいいりーちゃん! 僕のいちばんのおんなのこ』でいるためにどうしたらいいのか。
それはまっすぐ前を向いていることじゃない? そう思った。
平気な顔で私が毎日すごしていたら、いつのまにか周りは静かになった。
*
大学受験の追い込みのころ。
点数が伸び悩んでもどかしい気持ちが続いた。
私は理系で生物の研究、例えば昆虫や植物のもつ力を人間の社会に活かしていくような。そういう研究をしてみたいと思っていた。
少し珍しい学部のある大学を選んだから倍率も高く私の成績だとぎりぎりだった。
でも。それでも興味をもったことを学んでみたいなあと思えたのは。
貴一君がいつも私を外に誘って遊んでくれたから。女子だけで遊んでいたらそういうことは思わなかったかもしれない。でも虫をつかまえたりザリガニをとったり。道ばたの花や草をながめたり。貴一君が私にそういう面白さを教えてくれたから。
『かわいいかわいいりーちゃん! 僕のいちばんのおんなのこ!』
貴一君はずっと私の胸の真ん中にいる。
点数が伸びるようには何をするべきか。
貴一君がいちばんだと言ってくれた私が、どうしたらいちばんのままでいられるか。
問題集を、正解がでるまで何度も何度も読んで何度も何度も解いた。わからないところはわからないままにしない。とにかく朝も夜も。
貴一君の言ってくれた『いちばんの私』でいるために。
*
私のなにをもって、『かわいいいかわいいりーちゃん! 僕のいちばんのおんなのこ』と言い続けてくれたのかはわからない。
たぶん、たぶんだけれど、一緒に虫を追いかけ泥に入ってザリガニやおたまじゃくしをつかみ、お母さんに呆れられるほど遅くまで花や草を眺めてくれる女子なんて、他にいなかったからだと思う。
今ならその頃の私に私自身ちょっと呆れてしまう。でも貴一君と遊ぶのは楽しかったのだ。だから進路にまでこうやって昔の思い出が顔を出してくる。
無事に希望大学に合格したとき、あらためて貴一君の言葉がよみがえってきた。
『かわいいかわいいりーちゃん! 僕のいちばんのおんなのこ!』
ありがとね、貴一君。
貴一君のその言葉のおかげで私はいろいろ乗り越えてきたよ。
感謝してもしたりないくらい。
*
「梨紗、ほら写真とるわよ」
入学式。
大学の門の前でぎこちないスーツ姿の私をお母さんが写真にとってくれる。ふわりふわりと桜の花びらが空を舞っている。ピンク色の景色。ああ、夢みたいだ。この大学で私が勉強できるなんて。
「あの」
私の写真をとっているお母さんに、同じくぎこちないスーツ姿の男の子が声を掛けていた。声が私のところにまで聞こえてくる。
「よかったら一緒の写真、とりましょうか?」
「あら、ありがとうございます」
お母さんは嬉しそうに彼にカメラを渡し私のところに駆け寄ってきた。
私はその男の子から目が離せなかった。
もう坊主頭じゃないし。
虫取り網ももっていないし。
土も泥もついていないし。
だけど、確かに私の胸の中にある笑顔と同じ笑顔で。
だから、目が離せなかった。
風に乗って桜の花びらがくるくると舞い降りてくる。ピンク色の世界。
世界は嘘みたいに、夢のようで。
「とりますよ、はい、笑って──。りーちゃん、ほら、笑って──」
了
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