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本棚に追加第四話『変化の兆し』
自分に自信が持てないだけでなく、敬愛してやまない人からの賛辞は冷たくあしらって。
変わりたい、変わりたいと願ったところで何をする訳でもない。
こんな人間、生きてるだけで無価値だろ。
そんな風に思い込んだ俺は、宮ノ内先生の傷の止血をし、持ち物として鞄の中に常備していた絆創膏で簡単に手当てを終えてから。
先生に急用ができたと嘘八百を述べて、直ぐにその場を退散した。
そして、その後に控えていた講義にも顔を出さず、バイトもすっぽかし、誰も伴うこともなく、単身で夜の街へと繰り出したのだった。
初めて歩く、大学からも程近い国内有数の繁華街は、人と香水とアルコールとタバコとすえた生ゴミの臭いがした。金がなければ酔うことも出来ない。こんな吝嗇な街に居場所を求めるなんざ、俺もよくよく終わったな。
そんなくさくさした想いを抱えたまま、しかし行くあてもない俺は、煌びやかなネオンライトの下を、かったるさを前面に出しながらふらふらと歩いた。
何の当てもなく彷徨っていると、猫が一匹足下を通り過ぎていった。野良だろうか。成猫にしては小さいから、まだ子猫なんだろう。三毛猫のその子は、まるでついて来いとでもいうかのように、餌も金も義侠心も情けも、兎に角何も持っていないしみったれた俺に向かって、にゃぁ、と鳴いた。
特に行く当てもなかった俺は、気紛れにその猫の後を着いていった。散歩コースなのだろうか。子猫の足取りは軽く、迷いがなかった。人間が通れそうもない道は選ばない所からすると、一応旅のお供に対する気遣いはしてくれているらしい。
すると突然、その子猫が視界の先からフッと消えた。俺は何が起こったのかが分からず、少しだけ早足になってその子猫を追った。すると、子猫はすぐ側の半地下になっている階段の先に足を進めていたのだった。なんだ、そういう事かと肩を落とした俺は、子猫が先に進んだその階段の先にある扉を見とめて眉を潜めた。
『epiphany』
金色の印字で店名だけが扉に刻まれているそこは、一見すると何屋を営んでいるのかまるで分からない。俺はでも、妙な忌避感をそこから感じとって、その場で半歩後ずさった。
煌びやかなネオン街の中で、ここだけが静寂に包まれている。それがなんだか無性にこちらの恐怖心を煽って堪らなかった。
触らぬ神に祟り無し。ここは引き下がって、違う店で慣れない酒でも浴びようと足を繁華街の中心に向けたその時。
猫が、にゃう、とまた一声鳴いた。
俺はその声に合わせて、猫がいる半地下に反射的に目を向けた。そして、その時。店の扉が音もなく開き、中から人が現れた。髪を綺麗に金色に染めたその男の顔は、暗がりにあるため見る事は叶わなかったけれど。仕立てのいいオフホワイトのスーツに、ワインレッドの紅いワイシャツ。ネクタイはシックなブラックとくれば、彼がどんな職業を生業にしているのかくらいは、俺にだって想像が出来た。
男は猫の前にしゃがみ込むと、ちち、と舌を鳴らして猫を手招いた。
「よーしよし。腹っぺかしめ、また来たか。でもいまツナ缶しかねぇんだわ、これで勘弁しろよ」
慣れた手付きで猫をあやしてから、男は手に持っていたツナ缶を開けて、それを床面に直置きした。猫が頭を突っ込んでそれを勢いよく頬張っているのを見て、俺は安堵から胸を撫で下ろした。
餌場がこうしてあるんだな。もしかしたら、あいつ、良い餌場があるよって俺に教えてくれたのかな。だとしたら、凄く複雑なんだけど。猫にも同情されるほど、俺は弱っているのかな。
そんな風に人知れずプライドを傷付けられていると、餌に夢中になっていた子猫が顔を上げて、こちらに向かって、みゃう、と鳴き声をあげた。
俺は、あ、やっぱりあの子は良い餌場を教えてくれただけなんだなと知り、ますます落ち込んだ。
お前にもやるよって?
はいはい、ありがとな。
猫の鳴き声に合わせて、暗がりにしゃがんでいた男がこちらに視線を向けた。ひたりと真っ直ぐに目と目が合う。その瞬間、俺はその男の容貌に釘付けになってしまった。
ギリシャ彫刻の様に、整った造形。まるで、聖画から抜け出してきたかの様な、神々しさすら感じる、完璧過ぎる、その美貌。世の中には、こんな人がいるのかと、俺は呆気にとられた。
もしも俺の推察した通り、この男が夜の仕事を生業としているのだとしたら、この容貌はこれ以上ない武器となるだろう。
俺は暫くその男と目と目を合わせた。俺は前髪が長いので、そんな気がした、が正しいのだけれど。その後、男はツナ缶に口を突っ込んでいる子猫をツナ缶ごと通路の脇に置いてから、何故か俺の方に向かって勢いよく階段を上がり始めた。
その男は背中に立ち昇るほどの怒気を纏っていた。だから俺は、何か気に触る事でもしただろうかと身を縮めた。顔面最強男に凄みのある表情で睨まれたら、誰だってそうなると思う。俺はゆっくりと後退りながら、自分にこれから何が起こってしまうのか、頭の中でアレでもないコレでもないと、最悪のパターンのシュミレーションを試みた。
漁船に積まれ、足をコンクリートで固められて冷たい海に落下させられるまでを脳内で想定するのと同時に、顔面最強男が、ダン、と地上へと降り立った。
「お前さぁ、やる気あんの?」
「……は?」
「てか舐めてんだろ、この仕事自体をよ。女の相手して、酒飲んで、へらへらしてりゃあ楽して稼げるとか思ってんだろ?あ?」
「え、いや……その、そんな事は」
無いですし、夜の仕事に対する偏見もありません。てかやっぱり、ここそういう店で合ってるんですね。小指だけ何故か第一関節からお無くなりになってらっしゃる方がぞろぞろいるお宅では無いと。夜の男が女性に侍る、そういう店であると、そういう訳ですね、分かりました。で、この状況は、一体何?
「大体において、時間も守れない様な奴がやってける仕事じゃねぇんだよ。前日どころか明け方の酒が残ってようが、素面で通して時間通りに店に顔出す。それが出来なけりゃ、いつまで経っても売り上げなんて稼げねえんだ。それでもいいって上昇志向の無い奴は、はなっからウチにはいらねぇ。遅刻だの喧嘩だの、昨日は随分と好き放題してくれたみたいだな。だけど、俺が来たからには、もうでかいツラさせねぇからな」
……えっと。何から何まで、全部分かりません。一体全体、どうしたらいいの。そもそも、俺、貴方も、この店?も存在自体初めて知りましたし、時間云々だの売り上げだの、何がなんだか理解が追いつかない。
そして、親猫が子猫にする様に首根っこを掴まれて連行されているこの状況にも、全く理解が及びません。
なんで、俺はいまこの店の中に連れ込まれそうになっているんでしょうか。
扉の前で、三毛猫が満足した様子で毛繕いをしている。
お前の所為で、とは言わないけれど。せめて最後に、お前の頭をひと撫でしたかったな。

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