28人が本棚に入れています
本棚に追加◆プロローグ
「伊織くん、来ちゃった!」
オートロックをすり抜けて、直接鳴らされた玄関のチャイム。ドアを開けると、長く伸びた襟足に、ダブルの革ジャン。いかにもバンドマンといった風貌の佐伯透矢が、そこに立っていた。
「なーんて」
笑い顔を見せてから、ずかずかと部屋に入ってきた。すれ違いざま、ほんのりとタバコの匂いが鼻をかすめた。タバコを吸わない伊織を気遣って、外で吸い終えてきたのだろう。そう察せられるほどの、淡い残り香だった。伊織は、この微かな匂いが嫌いではなかった。
「透矢、手を洗ってよ」
伊織は透矢の革ジャンの背中に向かって言って、キッチンに戻った。今日来るとは聞いていなかったが、不思議とそんな気がしていた。
洗面所に放置されたヘアゴムは、透矢が勝手に残していったものだ。来るたびに、彼はそれで長い襟足を無造作に束ねる。伊織はそれを捨てることもできず、専用のマグネットフックを用意して吊るしてやっていた。いつの間にか、その本数は少しずつ増えている。
キッチンで夕飯の準備を続けようとフライパンに向かうと、バサッという音がリビングから聞こえた。透矢が革ジャンをソファに脱ぎ捨てた音だった。
「インターホン鳴らしなよ」
「鳴らそうとしたよ。そしたらちょうど中から人が出てきてさ。俺の顔見て鍵開けてくれたんだよね。怪しかったのか、かっこよかったのか、どっちだと思う」
「うん」
伊織は適当な返事をした。本当は換気扇の騒音にかき消され、透矢の声はよく聞こえなかったのだ。――その直後、ふいに背中へ柔らかな熱が重なる。透矢が後ろから抱きつくようにして、伊織の肩に顎を乗せたのだ。
「ねえ、何作ってんの」
耳元で甘く囁かれると同時に、しなやかな腕が伊織の身体を正面から囲い込んだ。
「生姜焼き」
「俺も食える?」
「食べられるよ」
「行くって言ってないのによく作ってくれてたね」
「余ったら取っておけるから」
「美味そうだ」
そう言うと透矢は腕を外してリビングに戻った。
――今のはなんだ。
伊織は俳優の端くれとしても、表情を変えない努力をした。顎を乗せるなんて、普通は恋人同士の距離感だ。伊織はそう思いながら、ため息をついた。抱きしめるというよりは、背後からふわりと包み込まれるような、抗い難い熱量。透矢は接触が多いタイプだが、ここのところ、こういうことをいつも以上にしてきた。伊織にはそれがなぜなのか、漠然とわかっているような気もしていたが、確信には至らない。
食後にソファに並んで座っていると、肩に寄りかかってスマホを見始めた。
「帰らないの?」
伊織が何気なく切り出すと、「うーん」といって足までソファーに乗せる。下手したら膝枕になるくらい、身を寄りかからせていた。
「あのさ~、今の伊織ってすごくいいよね。いや、昔の伊織がどんな人なのかっていう深いところまで知ってたわけじゃないけどさ。今の伊織は、落ち着く」
「そりゃ、俺ら三十歳なわけじゃん。落ち着くでしょ。……今日、泊まる気?」
「だめ? 明日京都でライブなんだけど、午後集合だから、起きて一度帰れば……」
伊織は言葉を濁して視線を逸らした。それを沈黙の肯定と受け取ったのだろう、透矢はそっとその手を取り、「今度、いいハンドクリーム買ってあげるよ」と指先をなぞった。――しかし、なぜかそのまま立ち上がり、一度は脱ぎ捨てた革ジャンをわざわざ羽織り直す。帰れと促していたはずなのに、いざ背を向けられると胸の奥がちりちりと焼ける。――今日は泊まらないのか。そんな伊織の微かな陰りを読み取ったのか、透矢は着込んだばかりの革ジャンを軋ませ、「わかっている」ような笑みを浮かべて再びソファーに腰を下ろした。
「京都から帰ったら、直で来ていい?」
試されたのか、と伊織は思った。子供のように振り回してくる透矢。それに喜んで振り回されている自分にも、諦めの笑みがこぼれた。
「直! まあ、俺がいれば入れてあげるよ。時間教えて」
「もちろん。生姜焼き超美味しかった。また作ってよ」
「いいよ」
「泊まる」
「はい。先に風呂入って寝てなよ。俺、仕事の台本読むから」
「何かに出るの?」
「ナレーションだよ」
それから、伊織が台本読みを終えて風呂に入ると、随分遅い時間になっていた。部屋に入ると、この家用の寝巻を着た姿の透矢が、すでにベッドで寝ていた。彼なりの気遣いなのか遠慮なのか、いつものように右側に寄って寝ていた。
伊織は自分のベッドなのに、どこか割り切れない思いを抱えながら、透矢を起こさないようにそっと滑り込む。三十歳の男二人が、なぜ当たり前のように同じ布団に潜り込んでいるのか。――答えの出ない自問自答の夜が、また更けていく。
掛け布団から抜き出た透矢の腕が見える。半袖から伸びる色白の細い二の腕。左腕には、いくつかのタトゥーが刻まれている。そこに躍る文字の意味を、本当はきちんと教えてほしかった。前に聞いたら、ひとつは「実家の猫の名前」と教えてくれたが、もうひとつ、どこか意味のある文字には触れさせてもらえなかったからだ。
柔らかい透矢の髪に触れる。自分のシャンプーやソープ、寝巻を借りて、猫のように丸くなって寝ている。愛しくならないわけがない。はっきり言えば、むしろ好きだ。でも伊織は自分の心を押し殺した。透矢はどうなんだ。何も思ってない相手にここまで近寄るのだろうか。友達はそういうものなのか。
透矢は帰り際、いつも何かを言いたそうにする。でも言わないで帰る。伊織にはそれがもどかしかった。どうせ明日も目が覚めれば、彼は一度帰るためにこの家を出ていくのだ。――いっそのこと言ってほしい。どっちなんだ。ベッドの中で、伊織は苦しくてたまらない気持ちになった。
翌朝、いつものように彼の背中を見送った後、伊織は決まって再会した時からの記憶を辿ってしまう。なんで、こうなったんだっけ。
そう、二人の止まっていた時計が動き出したきっかけは、三か月前の再会だった。

最初のコメントを投稿しよう!