喫茶店の演者たち

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「さて、そろそろ行きますかね」  妻がそう言ってテレビを消した。年の離れた妻は、定年退職した僕と違って、まだまだ現役。近所の大学の食堂でパートをしている。  彼女が家を出ると同時に、僕も一緒に出掛ける。大学に行く途中にある喫茶店で過ごすのが、日課なのである。  昔から通っている喫茶店だった。オーナー夫妻は僕より年上だけれど、いつまでも若々しい。  僕が着いても、店の看板はまだ出ていなかった。いつもそうなのだ。僕は妻と別れて、店に入る。 「あら、加古さん、いらっしゃい」  ちりん、と鳴ったベルを聞きつけて、奥さんが迎えてくれた。旦那さんの方は、カウンター席で新聞を読んでいる。僕のことを一瞥して、会釈してくれるけど、次の瞬間にはもう視線が新聞に戻っている。僕たちはずっと、こういう距離感だ。悪くない。  僕はいつも通り、窓際の席に腰掛ける。 「おまかせ?」 「おまかせ」  奥さんの問いかけに、僕は即答した。  この喫茶店に、本当はどういうメニューがあったかなんて、もう忘れてしまった。全部おまかせだ。  やがて、奥さんがコーヒーを持ってきてくれた。一口飲んで、ほうと息を吐く。柔らかな苦み。コーヒーを淹れてくれた旦那さんは、常連の僕の好みを知り尽くしている。  そのうちに、ふわっとバターの香りがしてきた。今日はピラフみたいだ。ぐう、とお腹が鳴ってしまう。  奥さんができたてのピラフを運んできてくれるのを、待ちきれない。熱々の食事が出されると、僕は子供みたいにがっついてしまった。  昔から変わらない味だ。僕の脳裏に、懐かしい記憶が蘇ってくる。  初めてここに来たのは、大学生の時だった。僕と同じ大学を出た旦那さんは、知り合った時にはもう、奥さんと結婚していた。悩める若者だった僕は、随分と二人に話を聞いてもらったものだ。勉強のこと、就職のこと――それから、恋愛のことも。学校をサボって、一日中入り浸ってしまった日もあったっけ。  大学を卒業してからも、僕は週末、この場所に通い続けた。当時は彼女だった妻との初デートにも、ここを選んだくらいだ。結婚してからも、二人でよく通った。  子供ができてからは、なかなか来られなくなってしまったけれど、時々思い出したように立ち寄った。いつ来たって、オーナー夫妻は変わらずに僕を歓迎してくれた。  そして、定年退職した今は、ほとんど毎日来ている。  ぼーっと窓の外を眺めて、庭の景色から季節の移り変わりを感じたり、これまでの人生に思いを馳せたり。変わらない雰囲気に身を沈めすぎて、今がいつなのか分からなくなってしまうことさえある。  あえて、変わったところを挙げるとすれば、客の数だろうか。昔は賑わっていたけれど、今は、一日を通して僕一人しかいないことも珍しくない。二人だって、僕と同じように年金生活者なのだ。昔みたいにあくせく働くこともないんだろうな。  食事が終わると、奥さんがコーヒーのおかわりを持ってきてくれた。 「ああ、そういえば」  ふと、僕は思い立つ。 「何でしょう?」 「ケーキはもう、やめてしまったんだっけ?」 「今は、事前にご予約いただいた時だけですね」 「来週、妻の誕生日なんだ。お祝いのケーキ、作ってくれないかな」 「もちろん」  奥さんの笑顔に、僕は嬉しくなる。昔は誕生日の度に作ってもらっていたけれど、いつしか、お祝いなんかしなくなっていた。久し振りのケーキに、妻が喜ぶ顔が目に浮かぶ。  それから日がな一日、僕はのんびりと過ごした。思い出を振り返っていたら、何時間いたって退屈なんかしないのだ。  それでも、陽は陰ってくる。さすがに、そろそろ帰らないといけないな。  重い腰を上げようとすると、ちりん、とドアのベルが鳴った。もうじき閉店なのに、今からお客さんだろうか――目をやると、入ってきたのは、パートを終えた僕の妻だった。 「帰りますよ」 「おや、お迎えのつもりかい? 幼稚園児じゃないんだから、やめてくれよ」  僕らのやり取りを見て、オーナー夫妻が微笑んでいた。

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