ずっと並んで歩いていこう

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ずっと並んで歩いていこう

「散歩にでも行かない?」  一緒に暮らしている航を誘うと、少し驚いた顔で視線をさまよわせた。  私がたっぷり深呼吸できるくらいの間黙り込んで、航は意を決したように答えた。 「あ、ああ。いいよ行こうか」  航のなんとも言えない顔で、私までなんとも言えない顔になってしまう。とはいえ、こたえてくれたのだから喜ばなくてはいけない。敢えて明るい声を張り上げる。 「何もいらないよね、あ、そうだ。ライトだけ持ってくね」 「うん、俺は?」 「いいよ、航がいればそれで」  すると、また、航は私の返事に困った顔を見せる。どうしてだろう。なんだか調子が狂う。 *  アパートの敷地をでてたんぼ道に出る。視界がぱっと開けて、オレンジから青へとグラデーションを纏った空がよく見える。  あたりには高いビルはなくて、たんぼと低層の住宅ばかり。ビニルハウスがたんぼとたんぼの合間に建っている。何を作っているのかはよく知らない。  私の地元であり、航が勤める車の部品メーカーの本社がある町。  2年前に飲み会で出会って、意気投合してつきあいだした。  1年前から一緒に暮らしている。  初対面の飲み会は男女各五人いたのだけれど、航は私の飲んでいたガラスの徳利を見て、「うっわ、日本酒ってこんな席で飲むやついるんだ」とのたまった。初対面なのになんだよ、と思いつつ、「おいしいよ」とお猪口を差し出したら素直に口をつけてきた。 「うわ、おいし」 「でしょ?」 「日本酒すきなの?」 「そりゃあ、コンパで飲みたくなるくらいには」 「あはは」  正直に言うと、集まってぱっと見たところ、特に気になる相手がいなかったからこれはもう好きなものを飲んで食べて帰ろうと思ったわけで。  そうじゃなければきっとカシスオレンジとか可愛い飲み物を頼んでいたし。  ってことは航には永遠に秘密だけれど。  なんて考えていたら口元が緩んでいたらしい。 「何ニヤニヤしてるの?」 「ん?」  隣を歩きながら私は航のほうを見た。航は私の顔を覗き込んでいる。思いのほか近くに航の顔があって驚いた。どこか心配そうな顔で。 「どしたの、航」 「それはこっちのセリフだよ」  ほうっとため息をついて航が呟いた。 「そういえば、最近のお散歩の記憶があんまりないの。前はよく土日の夜はお散歩してたよね」 「んー、まあ、どうだったかな」  歯切れ悪く答える航が、どうもおかしい。 「そうだよ、最近はあんまり」 「そうかな。どうだったかな」 「そうだってば」  思わず航の手をぎゅうっと握りしめた。  あ、そうだ。  いつも繋いでいたような気がするのに今日はどうして繋いでいなかったんだろう。指先を絡めるように握りしめたのに、航は握り返してこない。あれ?、と思ってまた力を込めたけれど反応がない。 「航、手は?」 「あ、ああ。握って大丈夫か?」 「大丈夫に決まってるでしょ」 「そっか」  ほっとした顔に私もほっとする。  どこか合わない。どうしてだろう。どこかおかしい。でもどこがって言われるとはっきり言えない。  たんぼ道を黙って歩き続ける。ゲコゲコと蛙の鳴く声が空気を揺らす。たんぼにそろそろ水が入るころ。何枚かのたんぼに水がはられているのを確認する。私は風がたんぼにつくる模様を見るのが好きだ。点在する住宅の庭先にツツジの花がいくつもまとまって咲いていて、先日まで咲いていた牡丹に続いて目を楽しませてくれる。  ぎゅっと航の手を握る。 「ツツジ、きれいだね」 「白? ピンク?」 「両方」  手を握って一緒に道を歩いて、なんでもないことを話す。  あれ、この会話ってしたことがある? 去年だろうか。一緒に暮らし始めたころ? 「先々週も牡丹が咲いてたね」  航が小さく口にして、私は不思議に思う。 「先々週も歩いた?」 「覚えてない?」 「ない」  喰い気味に答えたら航が、ふっと笑った。うんうんと頷く仕草で。 「そっか」 「歩いてないよね?」 「覚えてない?」  航の手に力がこもった。そっか、と呟いてもう一度頷く。  空のグラデーションはいつのまにか完全に夜の色へと変わっていて、あたりは暗くなっていた。道に外灯がつき始める。  蛙のゲコゲコを聞きながら、私たちは黙って歩き続けた。 *  私が覚えていないことがある?  航が何度も聞いてきた「覚えてない?」って言葉が気になった。  仕事で作業の工程をひとつ忘れる、ということはときどきあるけれど、普通に暮らしていて一緒に散歩に行ったかどうか、くらいは覚えているつもり。  なのにどうして航はそんなことばかり聞くのだろう。  確か、先週も先々週も、散歩に行かずに部屋にいて。ごはんを作っていた気がするのに。  あれ?  でも私、牡丹が咲いていたことちゃんと知ってた。  散歩以外でたんぼの向こうのよその住宅まで行くことはない。  あれ?  いつも手を握っていたのは覚えてる。でも先週とか先々週は? *  雪美と出会った飲み会には代理で出席していた。  これは内緒の話だけれど、都合で行けなくなったやつこそが多分雪美が好きなタイプだったと思う。あいつがいなくてよかった。  淡い水色の流線が入ったガラスのお猪口を、どうよって言わんばかりに差し出してきた雪美の笑顔が白い猫みたいで可愛くて。ほんのり朱に染まった頬にどきりとした。だからついついお猪口を受け取って飲み干してしまった。初対面なのに口をつけることが平気だった。自分でも不思議なくらい。  つきあいだして1年たったころ。  工場で夜勤もある俺に雪美が合わせてくれて、俺の職場近くにふたりでアパートを借りた。ここは雪美の地元でもあったから、生活圏を変えずにふたりの暮らしは始まった。  それが1年前のこと。  たんぼしかないような土地で、アウトドア派でもない俺たちが地味に楽しんでいたのは散歩だった。  主に土日の夕方から夜。夕暮れの空を眺めながら手を繋いで歩く。それだけでよかった。  花の名前を雪美と一緒にスマホで検索しながら歩く。季節によって咲く花が違うこと、お互いの好む花、そんなことを話しながら歩く。  先々週もそうだった。  牡丹がきれいだね、と顔を合わせた時の雪美の笑顔を俺は覚えてる。  脇道から出てきた軽自動車が、一旦停止を無視してふたりにつっこんできたことも、俺はちゃんと覚えている。  その日。  雪美は怪我をした。軽い怪我ではあった。病院に運ばれて頭と腕に包帯を巻いて、その日のうちに一緒に帰宅した。俺はかすり傷だけだった。  雪美の怪我自体は治りもはやかった。やっかいだったのは記憶だった。一緒に歩いていたこともどうして怪我をしたのかということもなぜか記憶からすっぽりと抜け落ちていた。  焦った俺は雪美に事故にあった日のことを話して聞かせた。でも雪美の反応は鈍かった。怖かったことを忘れることはある意味防衛本能だと医師に言われた。そして『無理をさせてはいけないですよ』、とも。        ああそうか。  無理矢理思い出させることはやめた。   怪我もすぐによくなって、生活に支障のでることはなかった。  ただ。  一緒に歩いていて怪我をさせてしまったから。反省をした俺は、雪美を散歩に連れ出すのをやめようと決めた。  怪我をした手を握り返すことも。  なのに雪美は平気で散歩に行こうと言うし、手を繋いでくる。  包帯が真っ白に巻かれてしまったように雪美の記憶はあの日だけまっしろになってしまった。  散歩しながら牡丹の前で渡した指輪のことも、すっかり忘れてしまって。   *  とても大切なことがあったんだと思うんだけれど。そしてとても怖かったことも。  先週? 先々週?  気がついたら頭と手に包帯が巻かれていた。  確か包帯を巻かれるような怖かったことの前後で、何か大切なイベントがあったのに。   思い出せない。  航に聞いてもはぐらかされてしまう。なぜだか目をそらして。  包帯はすぐにとれたけれど、少し手首に痛みが残った。  最近の航の様子がおかしいのもきっとこの怪我に関係しているんだろうなと思う。 「散歩に行こう」 って誘うと、こまった顔をする。  こまった顔をするから私もこまる。  航と散歩に行きたいだけなのに航をこまらせてしまうようで。  でも、大切なことを忘れている気がするから、散歩にこだわってしまう。  散歩でなくしたものを、もう一度拾いに行きたいと思ってしまう。 * 「航、散歩に行こうよ」 「ええっと、ああ。うん、いいよ」  私は手にライトを持った。あとは航がいればいい。  そうだ、もうひとつ。 「今日は、お願いがあるんだ」 「なに?」 「再現、してほしいの。もういっかい。怪我する前のこと」  航は驚いた顔をしたけれど、私は言葉を引っ込めない。  航の服がいれてあるクローゼットで見つけてしまったから。  ところどころこすって汚れを落とそうとした箇所のある、小さな箱を。 *  夕暮れの空が深い青みをおびた夜空になっていく。  私は航の手を離さないで歩く。ぎゅっと握ればおそるおそるといったふうに航は握り返してくれる。  ツツジがライトのように明るく咲いていた。温かい風が吹いて私と航の間を抜けていく。そうして水をはったたんぼに風の模様をつくる。  蛙の声、たんぼの匂い、時折聞こえるのは、どこからともなく飛んでくる白い鳥の鳴き声。  にぎる手の反対の手で、ライトを持ちながら私は歩く。航は私と同じか少しゆっくりのペースで歩く。  たんぼの向こうの広い道を車が通っていくときのヘッドライトが時々あたりを照らして通り過ぎていく。 「だいじょうぶだよ」 「ん?」  私の声が聞こえなかったみたいに航が聞き返してくる。 「覚えてなくたって、大丈夫だし。散歩だって、私がしたいんだから大丈夫。航は何も悪くないんだから大丈夫なんだよ」 「……そうは思えないから難しいんだってば」  航は空いている手でガシガシと頭を掻いた。 「だって私の覚えてないところで何があったって知らないもん。いいことだけ覚えていられたらいいもん」  航がぷはっと吹き出す。 「覚えてるとか覚えてないとか、どうでもいいの?」 「いいよ、いいことならもういっかいすればいい。嫌なこととか怖かったことなら忘れちゃってラッキー」 「そんなもん?」  首を傾げた航が可愛い。私はどうも可愛いものに弱い。  車にぶつかられた事故のことなんてどうでもいいの。だって今、元気なんだから。ただ、そのときのことを覚えていないだけ。それだって、怖かった記憶を忘れられたんだからラッキーだって思えば平気。  でも。  私は服のポケットから小さな箱を取り出した。そして航の前にぐいっと差し出した。 「これは、もういっかい、ちゃんと渡してほしい」  航は、あ、と声をあげる。 「あ、おまえ勝手に」 「だってたぶん、私のでしょ?」 「あー……そりゃあおまえのだけど、でも」  汚れちゃったし、なんか縁起悪いし。  航が小さくぼやく声がきこえる。暗くなったから顔が見づらい。どんな顔をしているんだろう。見たい。知りたい。  私は航のほうへ身を寄せて、顔をじいっと見上げた。 「私は、それをもういっかいもらいたい」  はあ、と諦めたように目を閉じて、航がうんうんと頷く。 「新しいのとか、じゃなくて?」 「それは10年後でいい」  ぶはあっと盛大に吹き出して航が肩を揺らした。  散歩が好きだ。  夕暮れも夜も、たんぼ道を航と歩くことが好き。  かあかあかあ  カラスが飛んでいく姿が見える。  小指の爪のように細い月とか。  大きなレモンイエローの満月とか。  1年中いろいろな花を見ることや、たんぼの水に風の形が映ることも。  ずっと一緒に歩いて見ていたい。  10年後も20年後も。  手を繋いで散歩しながら。 了

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