11:16分の霧

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ある朝、目覚めたら母が眠っているはずだった。 こんなに動かない事があっただろうか?と思う。 母の体に触れる。 冷たい……。 冷房、つけっぱなしだったかしら? 私は、母の名前を呼ぶ。 返事はない。 もう一度、少し強く呼ぶ。 それでも何も変わらない。 布団をめくり、母の体を見た瞬間、喉の奥から声にならない音が漏れた。 赤いものが、布団に広がっていた……。 そして母の腹部に、刺さったモノが見える。 丸い持ち手のものーー。 それは、どこかで見た気がする。 けれど思い出せなかった。 理解が追いつかなかった。 どうすればいいのか、わからなかった。ただ頭が空白になる。 玄関のチャイムがなった。 こんな時に来客の予定なんてなかったのに、どうしてーー? 心臓が跳ねる。 このまま見つかったら、どう説明すればいい。 ……説明なんて出来る気がしなかった。 昨日の私はどこにもいない。 クローゼットに隠れて、来客をやり過ごそうとした瞬間。 不意に、指先に触れたモノだけが、じっとりと濡れていた。 薄明かりの中、目を凝らしてそれを見ようとした。 それでも、その正体は何もわからなかった。 ーー錆びた鉄のような、嫌な匂い。 私は、無意識にそれを握りしめていた。 どれくらい隠れていただろうか。 物音を立てないように気をつけながら、私はクローゼットから出る。 あの濡れていたモノの正体は、見るのが怖くて見れていない。 ーー何か手がかりがないだろうか? 私は机を調べてみる。 その中は、ほぼ空っぽになっていた。ただ1枚の紙切れが入っていた。 どくん。 心臓が、大きな音を立てる。 その紙をとろうとした瞬間、手が震える。 紙の裏面には、昔よく見た母の字が並んでいた。 「今日は落ち着いている。 朝もちゃんと「おはよう」が言えた。 昨日よりずっとマシ……。 でも、少しだけ違和感がある。 私が話した事を、すぐに忘れている気がする。 あの子は大丈夫だというけれど、 大丈夫という言葉を何度も繰り返している。 ーー違う。昨日も同じ事があった。 それを私は書いたはずなのに、見つからない。 メモを残しておかないといけない。 何度も同じ事を書いている気がする。 娘の……あの子の記憶はーー」 ここでインクが途切れている。 私は、メモを机の上に置いた。 メモは、他にも何かありそうだ。 他の引き出しを開けてみる。 すべてもぬけの殻だった。 押し入れの中ーーこんなとこにあるわけがない……か。 そう思いながら、押し入れを探す。 ーーあ、あった……。 日めくりカレンダーの裏に文字が刻まれている……。 今度は、私の字?? 「ーー昨日、何してた??」 一文だけの短いメモだった……。 ーーこんな事、書いたっけ?? 分からない……。どうしてこんなメモを残したのか。私には思い出せない……。 私はもう一度、自分の字を見直した。 その字に見覚えがあるようで、なかった。 スマートフォンを取り出す。 通話履歴の1番上に、「朱里(しゅり)」という名前があった。   指が、その名前の上で止まる。 ……誰だっけ? 直近で連絡をとっているはずなのに、思い出せない。 親しい間柄だったのか。 それともーー。 かけてはいけない人に電話をしているような……少しだけイヤな感じがして、画面から目を背けたくなった。 通話履歴を確認すると、朱里とは長時間話しているらしい。 私にはまったく覚えがないのにーー。 朱里の電話番号に触れた。 その瞬間ーー。 指先が冷たく湿った。自分の汗なのか、わからなかった。 コールが鳴るとすぐに、相手が言う。 「ーーもしもし?夏美?」 受話器の向こう側で、私の事を呼ぶ声が聞こえた。 「あなたは朱里……さん?」 携帯だと思われる番号にかけているのに、いまいち自信が持てない……。 声が、わからない。 「何言ってんの?さっきも話したじゃん?」 「朱里、さん。あのお母さんが……」 私はそこで言葉を止めた。 これ以上、その話をしてはいけない気がした。 「ーーもしかして夏美、覚えてないの?」 「……え?」 「ケータイの履歴、見てみなよ」 スマホの履歴画面を見る。 「夏美、落ち着いてよく聞いてーー」 私は黙って、朱里の言葉を待った。受話器から漏れる吐息さえも、鋭い刃物のように私の耳をかすめる。 「あんた、さっき自分で言ったんだよ。’’もう耐えられない、お母さんを殺しちゃった’’って……覚えてないの?」 朱里の言葉が、耳の奥でイヤな音を立てて響く。 耳鳴りがする。 ずいぶんと遠くで、朱里の言葉が何かを伝えている。 でも、その声は私に届かなかった。 殺した?私が、お母さんを? そんなはずはない。でも、反論するための「昨日」が、私の頭の中にはどこにも存在しない。 ふと、自分の手を見た。 視界に入った瞬間、呼吸が止まった。 手のひらが、真っ赤に染まっていた。 指の隙間まで、どろりと重苦しい「赤」がまとわりついている。 錆びた鉄のような匂い……。 手、だけじゃない……。 白いTシャツの腹部もまた、べったりと赤黒い花が咲いた様に汚れていた。 「……あ、あは」 渇いた笑いが漏れる。 (違う。これはワインだ。昨日きっとワインを呑んだんだ) テーブルの上に、無造作に置かれたワインの空き瓶がそう思わせる。 ーー私は昨日、何をしていた? 思い出そうとするけれど、何も思い出せない……。 私はどうしてしまったんだろう? 「夏美…ねぇ夏美、聞いてるの?」 いつの間にか、スマートフォンをポケットにしまっていた。 ここにいる私は、赤の他人であるかのように思えてくる。 そして私は何かを探さなければいけないような、気持ちに襲われた。 ふと、目についたのは1枚の写真立てだった。 ゆっくりとそれに近づく。 ーーこれは、誰? そこに写っているのは、女性ーー??茶髪でふくよかな人だった。 だけど、顔の部分は執拗にマジックペンで塗りつぶされていて、わからない。  震える指先で、裏蓋を外す。写真立てから、カサリと渇いた音を立てて写真を抜き出す……。 そこには写真2枚。どちらも同じ人物らしいけれど、顔の部分がまた塗りつぶされていた。 ーーどうしてこんな事を?? そしてメモが1枚。 文字は震えていたけれど、これは母の文字だ。 「もう、あの娘は終わり…5分前の事すら覚えていない……あの娘を殺して、私もーー」 母は私の事を、殺そうとしていたのだと感じた。 悲しみよりも、その後の言葉が気になった。5分前の事を覚えていない……? まさか、これって私の事ーー? ポケットからスマートフォンを取り出した。 通話時間24分32秒ーー。 「もしもし、夏美、聞こえてる?」 通話している状態だったようだ。 「あなたは、誰ですか??」 「夏美??ーーやっと戻ってきた……」 「何を言ってるのよ。私は朱里ーー親友でしょ?」 しん……ゆう? 「私の事、何でも分かってるってこと?親友なんだもんね?」 夏美は聞く。 「だいたいは……ね」 夏美が大きく一つ深呼吸をして言う。 「一つ、聞きたいんだけど……通話時間24分になってるけど、私は何をしてたの?!」 「覚えてないの?」 「ーーお母さんの事、泣きながら相談されて、洗面台で服を脱いで洗って、って指示したのよ。そのままじゃ、夏美が疑われてしまうから……」 朱里の声は、どこまでも優しかった。 その優しさに促されるように、私は自分の足元をみる。 脱ぎ捨てられた白いTシャツが、湿った音を立てて、床に転がっていた。 さっきまであんなに鮮やかだった「赤」が、水で滲んで汚いピンクに変わっている。 「私は……洗ったの?」 無意識のうちに、朱里のいう通りに動いていた。自分の肉体が、急に恐ろしくなった。 ーーもしかして、私が母を……??

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