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本棚に追加『境界線上の善意』 あいうえおSS「せ」
「せっかく作ったのにさあ、ウチのアレ、味覚壊れてるんじゃないかしら」
和菓子・和心庵のベテランパート田中は吐き捨てるように言った。アレとは田中のご主人のことだ。
佐竹みちるは「そうなんですか」と無関心がバレない程度の……かつ、同意ではない相槌を打つ。
「そうなのよぉ。昨日の夕ご飯に作ったゴーヤーチャンプルーが自分史上美味しくできたのになんの反応もしないのよ。あんなに美味しいのによ? アレのバカ舌は今に始まったことじゃないけど。ほんっとにむかつくのよね。じゃあお前が作ってみろってんのよ」
みちるは心の中でため息をついた。
この和菓子屋でバイトをはじめてすぐ、田中が「作りすぎたから」とカレーをくれたことがある。
「大学生で自炊とかあまりしないんでしょう? だめよお。健康に気をつけないと。私、料理好きだから。今、スパイスから作るのに凝ってるの」
使い古したタッパーに入れてきた時点で予想はできたが、本格的なのは色だけだった。ナンはパッサパサ、べしゃべしゃのカレーは明らかに水の入れすぎだ。今はネット上にごまんと成功が保証されたレシピが転がっているというのに、どうしたらこうなるのかという出来であった。料理上手と思っているのは本人だけで、その実、壊滅的に料理が下手なのだが、文句も言わず完食するご主人は仏か何かではないか。いや。田中家内で完結できず、下手な料理が外部に流出していることを考えると、美味しくないと正直に伝えないことは優しさではなく怠慢ではないか。ご主人のことを「アレ」と呼ぶ田中のことだから、伝えたくとも伝えられないかもしれない。もしくは田中と同じく味覚が壊滅的な可能性もある。そうであるならばこの上ないベストカップルということになるのではないだろうか。田中は毎日不満のようだが。それはさておき、ご主人に対する愚痴を、陳列ケースに整然と並ぶ美味しそうな和菓子に聞かせないで欲しいと、みちるは思った。
もう、それだけで不味くなりそう。せっかく紫陽花なのに。
ケースに涼やかに並べられた紫陽花を象った練り切りを見た。
「あ。今日も来た。みちるん、ほら」
みちるん。
バイト先で出会って1ヶ月ちょっと。50代の田中は大先輩ではあるが馴れ馴れしいにも程があるのではないか。みちるんなんてこれまで呼ばれたことがない。これが昭和のセンスなのか。
「ほらほら、みちるん。見て。あの爺さん」
田中が表を見るように顎で合図した。
自動ドアの向こうに着流しに中折れ帽、杖を片手に商店街を歩いている老人の姿があった。その様子はドラマに出てくる頑固なご隠居という感じだ。
「あのおじいさんが何か?」
「みちるん、この時間に入ること基本ないじゃない? 大学終わってからだしね。毎日この時間に偏屈じいさん、商店街を散歩するの。ほんっとに嫌になっちゃう。いつも当たり散らすのよね。ああやって歩いては難癖つけることを探してんのよ。こないだなんか……あ、ほら! 今日は肉屋さんよ。みちるん、早く掃き掃除してきなさいよ」
掃き掃除などは店を開ける前にとっくにすませている。つまり、掃き掃除をする振りをして、肉屋で何が起こっているのか聞いてこいという意味である。田中のつまらない野次馬根性に協力するのは嫌だったが、これを断って攻撃の矛先を向けられるのが面倒だったので、しぶしぶ箒を手に表に出た。
「ちょっと、高山さん。前も看板に気をつけてくれといったじゃないか」
老人の怒鳴り声が商店街に響いている。顎に蓄えた髭は頭髪と同じく真っ白で、90は越えているのではないか。そうであるならば、杖をつきつきではあるが、毎日自分の足で歩いてくるとはすごいことである。お昼を過ぎたばかりなので、買い物客は少ないが、ちらちらと老人と肉屋のやりとりを気にしている。
「そもそも道路上に何かを置くってのはダメな決まりでしょう! あんた、今、商店街の組合長だろう? あんたが率先して守らないでどうするの」
へえ。肉屋さんが組合長なんだ。
肉屋の主人が表に出て来て看板を片付けながら何やら言い訳をしている。
「ちょっと。靴屋。あんたの店はこの道路も含まれてるのかね。こんなに出っぱる台を造られちゃあ困るよ。おい、君! 高校生か? 自転車はここに置くな。邪魔だろう。そもそも商店街のアーケード内は自転車通行禁止じゃ!」
老人は全方向に向けて怒鳴りはじめた。みちるは急にバイト先の和菓子屋は大丈夫か気になってきた。老人の言うように、道路にはみ出しての看板や商品の陳列は禁止されている。だが、一方で迷惑をかけない範囲内であれば黙認されてもいる。みちるがバイトしている和菓子屋も黒板と一体となった看板を道路に出しているのだ。
掃除をするふりをしながら老人の様子を盗み見していると、素通りする店と、怒鳴られる店があると気づいた。
肉屋さんはかなり大きな看板を左右から見えるように道に垂直に出している。ぼーっと歩いているとぶつかりそうになることあるな。靴屋さんのセール台は確信犯だよね。道路に並べる前提で作られてるもん。DKねー。群れるとどうしてあんなに傍若無人になるんだろ。あれがダメなのはわかる。でも……花屋とお惣菜屋さんは看板を道に出しているけどオーケー。何が違うんだろ。
老人が杖をつきつきこちらに向かってくるのが見え、ハッとした。看板を仕舞うべきなのか。まだ営業しているのに不自然だ。とりあえずみちるが店の中に引っ込んでしまえば怒鳴られるのは避けられるかもしれない。決めかねてみちるがもたもたしている間にも老人は近づいてくる。
「掃き掃除かね。関心関心。和心庵さんはいつも綺麗にしているなあ」
老人はみちるに笑いかけると、チョイッと帽子を上げて挨拶をし、通り過ぎた。
「あり、ありがとうございます」
老人は帽子を振ってみちるへ返した。拍子抜けしていると、また老人が怒鳴った。
「こら! そこのアイス屋。ゴミ箱はここじゃダメだと言ったろうが。あんたらもこんな並び方じゃいかん!」
えー……怒鳴る法則がわからない……。
と、その時、商店街の入り口にマイクロバスが停まり、少年が一人降りたのが目に留まった。
「先生、また明日」
「はい。また明日。気をつけてね」
なんてことのない挨拶だが、みちるは違和感を覚えた。少年は、先生と呼んだ女性にペコリとお辞儀をしたのだが、先生が立っている場所と微妙にズレたところに一礼し手を振ったのだ。女性は特に気にする様子もなくニコニコと少年を見送っている。少年はリュックを背負い直し、右手に白く細い棒を持った。
あ。
白杖だった。トントンと白杖を左右に降り点字ブロックを見つけると、少年は迷いなく点字ブロックをたどり商店街に入ってきた。
老人は点字ブロックの上のミニバイクを移動するよう、喫茶店のドアを開けて怒鳴っている。客が出てきてミニバイクを退けた。老人は喫茶店の前から立ち去る。少年とすれ違う。特に言葉は交わさなかった。少年は全盲のようで目を閉じているから、老人とすれ違ったことに気がつかなかったかもしれない。老人はそれを気にする様子もなく商店街を歩いて行った。
この商店街には点字ブロックが設置されている。大学への行き帰り、バイトや買い物の際に見ているはずだが、意識したのは今日が初めてだった。商店街の茶系の舗装に馴染むよう点字ブロックはグレー色だ。安全と景観、両方を成立させるために一方が少し多く犠牲を払う形となったケースだ。急にみちるは恥ずかしくなった。
「で。肉屋さん、なんて?」
店に戻ると待ち構えていた田中が嬉しそうに聞いてきた。
「特には」
田中は納得してないようだったが、タイミング良く客が来たのでこの話はここで終わった。
みちるは気分がよかった。老人の不器用な善行を田中の愚痴のネタにしないで済んで。いつになるかわからないが、今度老人に会った時にはちゃんと挨拶してみようと思った。
了


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