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本棚に追加次に桜が咲く頃に
「川崎さん、雨だから走ると危ないよ」
教室内を走って廊下に出て行こうとしていた川崎唯奈に僕は声をかけた。
「坂田君、見逃して。だって雨だから」
「は?」
「ん?」
川崎さんは首を傾げて僕を見返してくる。
「雨だから危ないでしょ?」
「雨だから散るでしょ? 桜が」
「そう、かも? でも今それって関係ある?」
そういえば。
今は四月のはじめで。
先週の土日あたり近所の遊歩道の桜は満開だった、と母親が言っていた気がする。ってことは、今日はもう金曜日だし、この土日に桜が散り始めてもおかしくはないか。
「おおありだよ。桜が散って見られなくなっちゃうでしょ?」
「で、走って? 雨だから桜が散る前に走って桜を見にいくってこと?」
「そ!」
今にも走り出しそうにリュックを背負って、川崎さんは両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「というわけなので、いくね!」
「走ったら危ないってば。気をつけていきなよ」
「頑張るー」
ニコッと笑い、頭のてっぺんで結んだ髪を揺らして教室を飛び出していった。
「おう、がんばれー」
小さく呟いた声はきっと届かなかっただろうけど。
僕はゆっくりと教室を出て、昇降口へ向かう。下駄箱で川崎さんの名札の場所に上履きが雑に入っている。それを見て僕は思わず笑ってしまった。ものすごく急いで靴を履いて駆けだしていく姿が想像できたから。
「唯奈って慌てて帰って行ったけど何かあるのかな」
「んー? 知らないけど従兄弟が帰っちゃうからーとか言ってたよ」
「あー、そうなんだ」
女子ふたりがおしゃべりしながら僕の横で靴を履き替え、昇降口を出て行った。傘をシュパッと開いて歩き出していく。
へえ。
従兄弟かあ。
桜を見にいくっていってたけど。一緒に、ってことか。
つま先をコンクリートの地面でトントンと弾ませ靴を履く。ざあざあ降っている雨を見て、これは桜を散らしてしまうな、などと考えながら傘を開いた。
そして週が明けて月曜の朝。
僕は再び川崎さんに声をかけた。
少しうつむいて教室に入ってきた川崎さんが顔をあげる。
「金曜は元気に走って行ったけど」
「あー、うん」
「従兄弟さん帰っちゃったんだって? 桜、みれた?」
尋ねると、川崎さんは目を少し開いた。
でもすぐに元に戻る。普通の顔だ。
「そうなの。従兄弟。よく知ってるね。大介くん、桜が散っちゃうから早く帰るって」
「なにそれ」
桜と一緒にいなくなるとか?
桜が散っちゃうからってなんだっていうんだろう。
「うーん、自分の住んでるのがここより少し北だけど。桜が満開を通り越して散っちゃうからっていうか」
「それでも十分意味不明だし」
僕の言葉で川崎さんは、にへら、と頬を緩ませた。
どこかゆがんだような顔で。
「だよねえ」
そして、僕から視線をそらして、というよりどこか遠いところを見つめるような目で続ける。
「多分、地元で約束があったんじゃないかな」
「ふうん。従兄弟って年上なの?」
なんとなく聞くと、大学生、と川崎さんが小さく呟く。
「お母さんのお姉さんの子。年齢的にお兄ちゃんなの」
「川崎さん、ひとりっ子?」
「んん、そうだけど。わかる?」
「なんとなーく」
お兄ちゃんみたいに慕ってる従兄弟か。へえ。そうか。
話がそこで止まってしまったからか、川崎さんは黙って自分の席へ歩いていった。一番前の席にぽすんと座るのを僕は見ていた。
頭のてっぺんで結んだ髪が、金曜みたいに揺れる。
ふわりふわりと。
*
授業中、一番前の席なのにぼんやり考えてしまう。
坂田くんがやたらと聞いてくるから。
だから金曜に帰ってしまった大介くんをいやでも思い出してしまうのだ。
私の従兄弟の大介くんは。
大学生なのだけど、先週の木、金の二日間は学校がお休みだからとふらりとうちに遊びに来ていた。
うちで一緒に暮らしているおばあちゃんに会いにきた、って。
大介くん家族はこの地から離れて暮らしてるのに、昔から、おばあちゃんちである私の家によく遊びに来ていた。私も本当のお兄ちゃんみたく思っていたんだけど。
でも、最近彼女ができたらしいってお母さん経由で聞いたときのそのショックたるや。自分でもよくわからないくらいショックだった。
ショックを受けている自分に気がついてしまったというか。
だから今回遊びにきたときに、写真を見せてもらった。彼女さんの。
アーモンドみたいな形の瞳と色白な顔。化粧っ気がないのにきれいな顔の造作が眩しかった。
そろそろ80歳近くなるおばあちゃんがずっと、『彼女ができたら見せてね』、って言っていたのを忠実に実行したんだと思う。素直で優しいから。
こんな休みがあるなら彼女と遊べばいいのにって私が言ってみたら、目を細めて笑った。
『あ、弥生は友達と旅行にいってるんだ』
──弥生さんっていうのか、あの写真の彼女さんは。ふうん、そうか。
『でも、桜が満開になったら一緒に見ようねって約束してるからいいんだよ』
『ふうん。でも、こっちの桜がもう満開だし。そろそろ大介くんとこの桜も満開になっちゃうんじゃない? 雨で散っちゃったりして』
明日の──金曜の──天気予報は雨。
少しだけいじわるな気持ちになって言ってみたら、やぶ蛇だった。
『そうだねえ。じゃあ雨が降ったら帰るよ。弥生も土曜日には旅行から帰ってくるから。散る前には絶対に一緒に見るって約束してるしね』
絶対、とか
小さな子どもの約束みたいに、絶対、とか。
そんな無邪気に私じゃない人と約束するとか。
途端に、胸の中でもやもやしたものが言葉になって口から飛び出てしまった。
『じゃあさ、雨が降ったら私も学校すぐに帰ってくるから。私も最後に大介くんと一緒に桜を見たい』
『いいよ、雨だと散っちゃうからねえ。唯奈を待ってから帰るよ』
強引な私のお願いを、大介くんは笑って快諾してくれた。こういう優しいところが、私は好きだったんだと実感して苦しくなった。
そして翌日金曜日、天気予報通り雨が降ったから。私との約束を守って、私と一緒に桜を見てから、大介くんは帰っていった。
桜を追いかけるように北のほうへ。
*
「川崎さん、桜前線って言葉知ってる?」
机で頬杖をついていた私に、また坂田君が声をかけてきた。すっと私の机の横に立つ。
桜前線?
なんだかきれいな言葉に聞こえるけれど。
「なに、それ」
「あのね、桜が咲く地点と地点を結んでいくとそれが天気図の前線みたいにみえるから、そう呼ばれてる。だいたい北上していくって」
坂田君の言葉で、なんとなく天気予報で聞いたことがあるなあ、と思い出す。
確か日本列島のパネルに桜の花のシールが貼られていたような。
「えっと、桜の咲いてるところがわかる線ってこと?」
「まあそんなかんじ」
「日本の北のほうにのぼっていくの?」
「そうだね」
坂田君がうん、と頷いた。
さくらぜんせん。
胸で反芻してみて、やっぱりきれいな言葉だな、と感じる。
「でもね、桜って追いかけても追いかけてもあっというまに散ってしまうから」
「うん、そうだね」
突然坂田君が話し出した言葉に戸惑う。追いかけても追いかけても──。
「だからさ、前線を追いかけるんじゃなくて、定点観測で桜を見守るのもいいと思うんだよね」
ていてんかんそく。
同じ位置で桜を見続ける。
桜が咲くのを追いかけるんじゃなくて。
定点観測、かあ。
大介くんが桜を──弥生さんを──追いかけて行ってしまった、のとは逆のことかな。
「坂田君、なんでそんなことを言うの?」
「ん? えっと、追いかけなくてもきれいな桜はここに咲いてるわけだし、とか思ったりしたから」
急にあたふたと頭を掻いたりきょろきょろしたり、坂田君が挙動不審になった。珍しい。いつもどこかひょうひょうとしてるのに。
思わずくすりと吹き出してしまう。
私が笑い出したのを見て、坂田君はいつもの坂田君みたく落ち着いた顔になった。
「だからね、雨の日とかに無理に追いかけなくてもいいんじゃないかなって思って」
──追いかけなくても。
大介くんが桜を追いかけていった姿を思い出す。大介くんはいってしまった。
だからきっともう散ってしまったのだ。
私の桜は。
それならば、じゃあ。
「来年の桜を待ってみようかな。定点観測で」
ぽそりと口にしてみると、坂田くんがぽりぽりと頬を掻いた。
それからふわりと微笑む。
「楽しみだね。次の桜の頃が」
そうだね。
次の桜を咲かせられるかどうか。
大介くんのことを思い出すと胸がきゅっとなるけれど。
次の桜の頃には、きっと。
了

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