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本棚に追加第2話 藻塩の部屋
相馬佳乃がその民宿の名前を最初に見た時、スマホの画面に貼りついた安っぽい写真のほうが先に目についた。
海を背にした二階建ての木造家屋。瓦は少し波打ち、外壁は潮風で白く粉を吹いている。玄関脇には「民宿しおまち」と手書きの看板がかかっていて、写真の端に、枯れた松の枝と、錆びた自転車のハンドルが映り込んでいた。
安い。
それが何より大きかった。
卒業旅行といっても、佳乃たち三人に余裕があるわけではない。海外旅行に行く友人も、温泉旅館の会席料理を予約した友人もいたけれど、佳乃と日向葵、それから水沢真紀は、海辺で一泊できれば十分だと笑い合った。夜に酒を少し飲み、朝に海を見て、駅前で干物でも買って帰る。学生最後の旅行としては慎ましいが、その慎ましさすら、後になれば懐かしくなるはずだった。
そう思っていた。
民宿へ向かうバスは、海沿いの細い県道を何度も揺れながら走った。窓の外には、灰色の海が広がっていた。春先なのに空は低く、雲と海の境目が曖昧だった。波は白く泡立ち、岩場にぶつかるたび、遠くから布を裂くような音が聞こえた。
「思ったより寒いね」
葵がマフラーに顎を埋めながら言った。
「海沿いって、もっと爽やかな感じかと思ってた」
「観光パンフの海は加工されてるんだよ」
真紀が窓に額を寄せた。
「うわ、あの家、屋根に網干してる。すご」
佳乃は返事をしながらも、窓の曇りを指で拭った。海の匂いが、バスの中まで入り込んでいる。潮の匂いというより、濡れた縄と、干からびた魚と、古い鉄を一緒に煮たような匂いだった。唇を舐めると、何も食べていないのに塩辛かった。
民宿しおまちは、バス停から坂を下りた先にあった。
写真で見たよりも古い。玄関の引き戸は木枠が歪み、ガラスの隅に細かなひびが入っている。軒先には赤茶けた浮き球が吊るされ、風に揺れるたび、からん、と乾いた音を立てた。だが玄関を開けると、中は思ったよりきちんと掃除されていた。土間には打ち水の跡があり、靴箱の上には椿が一輪、湯飲みに挿してある。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきた女将は、五十代半ばほどの痩せた女性だった。髪を低く結び、紺の割烹着を着ている。目元には深い皺があったが、声は柔らかかった。
「相馬様ですね。遠いところをようこそ」
「お世話になります」
三人で頭を下げると、女将は笑って鍵を取った。
「二階の角のお部屋です。海は少し見えますけど、夜は風の音が強いので、窓は開けないでくださいね」
「はい」
階段は急だった。踏むたび、ぎし、と湿った音がした。佳乃は手すりに触れたが、木が妙に冷たく、すぐに手を離した。廊下には古い畳表の匂いと、潮の匂いが混ざっていた。壁には色褪せた風景写真が並び、漁船、岬、祭りの行列が黄ばんだ額の中で眠っている。
部屋の前で、女将が足を止めた。
「こちらです」
襖を開けた途端、葵が小さく息を吸った。
八畳の和室だった。窓際に低い卓があり、座布団が三枚並んでいる。畳は古いが、破れてはいない。押し入れの襖には薄い染みがいくつかあり、天井の隅は少し黒ずんでいた。障子の向こうから、白く濁った海の光が入ってくる。
けれど佳乃が見たのは、畳だった。
畳の目の間に、白いものが浮いていた。
粉のような、砂のようなもの。窓際から部屋の中央へ、細い筋を作るように散っている。塩だ、と佳乃は思った。畳の青褪めた色の上で、それだけが妙に白い。
「あの」
佳乃が口を開く前に、女将が静かに言った。
「寝る前に、部屋の塩を払わないでください」
三人は同時に女将を見た。
葵が笑いかけて、途中でやめた。
「塩、ですか?」
「はい。海が近いので、湿気で上がってくるんです。気になるかもしれませんけど、払わずにそのままで」
「掃除しないほうがいいってことですか?」
真紀の声には、少し困惑が混じっていた。
「布団敷いたら、つきません?」
「敷く場所はこちらで見ますから」
女将は部屋に入り、畳の白い筋を避けるようにして歩いた。足を置く場所が決まっているかのような歩き方だった。卓の上に湯呑みと茶筒を置き、押し入れを開けて布団を確認する。
「夜、畳の目に白いものが浮いてきても、触らないでください。足で擦ったり、タオルで拭いたりもしないで。朝になれば、こちらで掃除します」
葵が佳乃の袖を軽く引いた。
女将は振り返った。笑っているが、目は笑っていなかった。
「それだけ守っていただければ、何もありませんから」
何もありませんから。
その言い方が、何かあったことのある人の言葉に聞こえた。
女将が出ていくと、真紀がすぐに襖を閉めた。
「ちょっと何、今の」
「湿気で塩って浮くの?」
葵が膝をつき、畳を覗き込もうとした。佳乃は反射的に言った。
「触らないほうがいいよ」
「触らないよ。見るだけ」
葵はスマホのライトをつけ、畳の目を照らした。白い粒は、普通の食塩より少し荒く見えた。真っ白ではない。灰色がかっていて、ところどころに細かな黒い屑が混じっている。佳乃はそれを見た瞬間、食卓に置かれる塩ではなく、乾いた海藻に絡んだ塩を思い出した。
藻塩。
昔、祖母の家で見たことがある。海藻を焼いて作る塩。灰と海の匂いが混ざった、重い塩。
葵が鼻を近づけ、顔をしかめた。
「変な匂いする」
「どんな?」
「海っていうか、濡れた押し入れみたいな」
真紀が荷物を畳の上に置こうとして、迷った末に座布団の上へ移した。
「安い宿って、こういう感じなんだね」
「嫌なら変える?」
佳乃が言うと、真紀は首を振った。
「今から他探すの面倒。大丈夫でしょ。女将さんも、湿気って言ってたし」
「でも、塩を払うなって変じゃない?」
「地方の宿って、縁起とかあるんじゃないの。海のものを粗末にするな、とか」
葵は軽く言ったが、声は少し上擦っていた。
夕食は一階の広間で出された。焼き魚、煮付け、あら汁、小鉢に入ったひじき。どれも味は濃く、酒を飲まない佳乃には少ししょっぱすぎた。だが魚は新鮮で、真紀は「これだけで宿代の元取れた」と笑った。
広間には他に客はいなかった。
食事の途中、葵が女将に尋ねた。
「あの、二階の部屋って、前から塩が出るんですか?」
佳乃は箸を止めた。
女将は味噌汁の椀を置いていた手を一瞬止めたが、すぐに笑った。
「海沿いの家ですからね。風向きで、どの部屋にも出ることはあります」
「でも、払わないでっていうのは?」
「昔からの言いつけです」
「昔から?」
女将は葵を見た。
「この辺りでは、流れてきたものを勝手に動かしてはいけないんです」
広間の蛍光灯が、じじ、と小さく鳴った。
真紀が少し身を乗り出した。
「流れてきたものって、漂着物とか?」
「ええ。木片、網、衣類、それから人も」
佳乃の箸の先から、魚の身が皿へ落ちた。
女将は淡々と言った。
「昔、大きな海難事故がありましてね。船がひと晩戻らなかった。翌朝、浜にいくつも上がったそうです。今みたいにすぐ身元を調べられる時代じゃありませんから、いったん広い部屋へ並べて、家族の方が確認したと聞いています」
葵の顔が引きつった。
「広い部屋って、まさか」
「この宿も使われました」
女将は視線を伏せた。
「でも、ずいぶん昔のことです。私が生まれる前ですから」
「それで、塩?」
真紀が声を低くした。
女将は少しだけ唇を結んだ。
「海から戻った方には、海の塩がついています。無理に払うと、帰る場所が分からなくなる。そう言われていました」
葵が笑おうとしたが、喉の奥で音が消えた。
「怖い話みたいですね」
「怖がらせるつもりはありません」
女将はそう言い、湯呑みにお茶を注いだ。
「ただ、あの部屋では、塩を払わないでください」
その夜、三人は部屋に戻ってからもしばらく黙っていた。
窓の外では、海が鳴っていた。昼よりも近く聞こえる。ざあ、ざあ、という波音の中に、時折、何か重いものを引きずるような音が混じった。風が障子を震わせ、天井の古い板が低く鳴る。
葵は布団の上に座り、スマホをいじっていたが、画面を見ているようで見ていなかった。真紀は押し入れから出した浴衣を広げ、畳につかないよう膝の上で畳み直している。
「さっきの話、盛ってるよね」
真紀が言った。
「民宿の怪談ってやつ。観光地あるある」
「女将さん、そんな感じじゃなかったけど」
佳乃は窓際の座布団に座っていた。畳の白い筋が、夕方より濃くなっている気がした。細い線だったものが、少し幅を持ち、畳の目に沿ってじわじわ広がっている。
葵がスマホを伏せた。
「ねえ、調べた」
「何を?」
「この辺の海難事故」
佳乃と真紀は同時に葵を見た。
葵は画面を二人に向けた。古い新聞記事の画像が出ている。文字は潰れて読みづらかったが、見出しだけは分かった。
沖合転覆事故、行方不明者多数。
「昭和の初めだって。漁船じゃなくて、客を乗せた小さい連絡船みたいなのが沈んだらしい。浜に何人も上がったって」
葵の指が画面を滑った。
「身元確認のため、近隣の旅館、民家に遺体を収容。で、その中に身元不明の女性が一人いたんだけど、確認前に消えたって」
「消えた?」
佳乃の声が掠れた。
「記事だと、混乱の中で別の場所へ運ばれた可能性って書いてある。でも、その後の記録がない」
真紀が眉を寄せた。
「誰かが盗むわけないじゃん。遺体でしょ」
「だから怖いんでしょ」
葵は言ってから、自分の言葉に怯えたように口を閉じた。
佳乃は畳を見た。
白い塩が、そこにあった。
畳の目に沿って、少しずつ、少しずつ、何かを描いている。最初はただの筋だった。だが見つめているうちに、それが曲線を作っていることに気づいた。丸まった背中。抱え込まれた膝。腕の線。
膝を抱えた女の形。
佳乃の喉が、音もなく縮んだ。
「ねえ」
二人が振り向く。
「これ、人に見えない?」
真紀が立ち上がり、葵がスマホのライトをつけた。
白い塩は、畳の中央に薄く浮かび上がっていた。確かに、人の形に見えた。膝を抱え、顔を伏せている女。畳の目が髪の筋のように見え、白い塩が肩や背中を縁取っている。
葵が小さく息を呑んだ。
「やだ、何これ」
「偶然でしょ」
真紀は言ったが、声が乾いていた。
「畳の目と、湿気のせいで」
その時、部屋の隅から、すう、と音がした。
三人は固まった。
誰かが息を吸ったような音だった。
佳乃は畳を見つめた。塩でできた女の背中が、ほんの少し膨らんだ気がした。
すう。
また、息。
今度は、押し入れの前から聞こえた。
葵が佳乃の腕を掴んだ。指先が冷たい。
「今、聞こえた?」
「聞こえた」
「畳の下?」
真紀が震える声で言った。
部屋の空気が重くなっていく。海の匂いが濃くなり、鼻の奥にべったり貼りついた。湿った畳の匂い。古い布団の綿の匂い。そこに、生臭いものが混ざった。魚市場の床に残った水を、暗い部屋で温めたような匂い。
佳乃は立ち上がった。
「女将さん呼ぼう」
襖へ向かおうとした時、畳の上で、白いものが動いた。
塩の人影の隣に、別の白い筋が浮かび上がっていた。細長い。腕を前へ伸ばしている。腹を畳につけ、這っている男の形だった。
それは、部屋の入口へ向かっていた。
佳乃は足を止めた。
「……通せんぼしてる」
葵の声は泣き声に近かった。
塩の男の指先は、襖の敷居へ届いていた。畳の目の間から塩が滲み出すように増え、細い五本の指を形作る。爪まであった。白い塩の爪が、敷居を掴むように曲がっている。
真紀が怒鳴った。
「もう無理、出る!」
真紀は部屋の端を大股で進み、塩の男を避けて襖へ手をかけた。その瞬間、畳の下から、がり、と音がした。
真紀の足元だった。
がり、がり、がり。
爪で畳の裏を引っ掻くような音。
真紀が悲鳴を上げ、足を引いた。畳の目の間から、白い塩がぷくぷくと泡のように浮いてきた。そこに、小さな手形が現れた。
子どもの手だった。
片手だけ。
畳の目を内側から押し上げるように、白い五本指が広がる。
その小さな手が、真紀の足首に向かって、ずる、と伸びた。
「いやっ!」
佳乃は真紀の腕を掴んで引いた。三人は布団の上へ逃げるように集まった。布団はまだ敷いたばかりで、白いシーツは乾いていた。だがその下の畳から、絶えず息の音がする。
すう。
はあ。
すう。
はあ。
何人もの人間が、畳の下で仰向けに寝かされ、苦しげに呼吸しているようだった。
佳乃はスマホを取り出した。圏外だった。宿のWi-Fiも切れている。真紀も葵も同じだった。
「下、行こう」
佳乃は自分の声が震えているのを聞いた。
「廊下に出て、女将さんのところへ」
「塩、踏むよ」
「踏まないように行くしかない」
葵が首を振った。
「無理だよ、増えてる」
部屋の畳には、白い人影が増えていた。
膝を抱えた女。這っている男。小さな手。首を曲げて横たわる人。両腕を広げた人。顔だけをこちらへ向けているような丸い白い輪郭。塩は畳の目に沿って浮かび上がり、部屋中に薄い死体の地図を描いていく。
そのどれもが、少しずつ呼吸していた。
白い輪郭が上下する。
畳が、かすかに波打つ。
部屋全体が、眠っている遺体置き場のようだった。
葵が両手で口を押さえた。
「お願い、やめて……」
その声に反応するように、膝を抱えた女の塩が濃くなった。顔を伏せていたはずの形が、少しずつこちらへ向く。塩だけなのに、目の位置が分かった。二つの暗い窪みが、畳の上に開いていた。
畳の下から、女の声がした。
「ここ、私の浜じゃない」
三人は息を止めた。
声は低かった。床下から上がってくる、水を含んだ声。遠いようで、耳元に口を寄せられているようでもあった。
「ここ、私の浜じゃない」
同じ言葉が、畳の下を伝って部屋の四隅へ広がった。
「帰して」
葵が泣き出した。
「やだ、やだ、何これ、もう帰りたい」
真紀が必死に息を整えようとした。
「走るよ。佳乃、葵、いい? 襖まで三歩。廊下に出たら階段まで走る。塩なんか踏んでも知らない」
「女将さん、払うなって」
「払うんじゃない、逃げるの!」
真紀はそう叫び、布団から飛び降りた。
足が塩の手形を踏んだ。
その瞬間、部屋中の息が止まった。
静寂が落ちた。
波の音も、風の音も、何も聞こえない。
真紀の足元で、塩の小さな手が崩れた。
白い粒が、真紀の足の甲へまとわりついた。
真紀は一歩進もうとした。だが足が上がらない。畳に貼りついたように動かない。
「え、何、何で」
塩が足首まで上がっていた。
粉なのに、濡れた海藻のように絡みついている。白い粒の間から黒い筋が伸び、真紀の肌に巻きついた。
「取って! 取ってよ!」
佳乃は真紀の腕を掴んだ。葵も反対側から引いた。だが真紀の足は畳に沈み始めていた。畳の目が水を吸ったように開き、その隙間から黒い海水が滲んでいる。
真紀の顔から血の気が引いた。
「冷たい、冷たい! 下、海みたいになってる!」
「踏ん張って!」
「無理、引っ張られてる!」
畳の下から、いくつもの手が真紀の足を掴んでいた。白い塩の輪郭ではない。今度は本物の手だった。水にふやけ、青白く膨らんだ指が、畳の隙間から突き出ている。爪の間に黒い砂が詰まり、指の腹が真紀の脛を撫でた。
葵が絶叫した。
佳乃は泣きながら真紀の腕を引いた。真紀も畳を蹴ろうとしたが、足は膝まで沈んでいる。
「佳乃、離さないで!」
「離さない!」
「離さないで、お願い、お願い!」
真紀の叫びは、途中で濁った音に変わった。畳の下から水が噴き出し、真紀の腰まで飲み込んだ。海水だった。冷たい飛沫が佳乃の顔にかかり、口に入った。苦いほどしょっぱかった。
真紀の手が滑る。
佳乃は爪が剥がれそうなほど力を入れた。
その時、畳の下の女が言った。
「ここじゃない」
真紀の身体が、一気に引きずり込まれた。
畳が閉じる音はしなかった。
ただ、濡れた布を水に沈めたような、ずぶ、という音がしただけだった。
真紀はいなくなった。
畳の上には、真紀の片方のスリッパと、塩で縁取られた人型が一つ増えていた。横向きに倒れ、片手をこちらへ伸ばしている形だった。
葵は声にならない悲鳴を上げ続けていた。佳乃は真紀の名前を呼ぼうとしたが、喉が塞がっていた。指の間に、真紀の温もりだけが残っている。その温もりも、すぐに海水の冷たさに奪われた。
部屋の温度が下がっていく。
障子が内側から濡れ始めた。紙に黒い染みが広がり、ぽた、ぽた、と畳へ落ちる。天井からも水が垂れた。押し入れの襖の隙間から、細い海藻が一本、ぬるりと出てきた。
佳乃は葵の肩を掴んだ。
「逃げるよ」
「真紀は?」
「今は無理。下に人を呼ぶ」
「でも、でも」
「葵!」
佳乃が叫ぶと、葵はびくりと肩を震わせた。
佳乃は葵の手を掴み、塩の人影を避けながら襖へ向かった。畳はもう乾いた床ではなかった。踏むたび、じゅく、と水が染み出す。畳の下には何か柔らかいものが詰まっていて、足裏に押し返してくる。葵は何度も足を取られ、そのたびに佳乃が引いた。
襖を開ける。
廊下が濡れていた。
乾いた木の廊下だったはずなのに、足首ほどの水が溜まっている。海水が廊下の奥からゆっくり流れてきていた。壁紙は膨れ、下から黒い海藻が垂れ下がっている。天井の蛍光灯は消えかけ、薄青い光の中で、海藻が髪の毛のように揺れていた。
「何で……二階なのに……」
葵が呟いた。
廊下の向こうで、誰かが歩く音がした。
ぺた。
ぺた。
濡れた裸足の音。
佳乃は葵を背中に庇った。
「女将さん?」
返事はない。
ぺた。
廊下の角から、白い手が出た。
細く、ふやけた手だった。次に濡れた髪。顔は髪に覆われて見えない。女が廊下の奥から這うように現れた。立っているのではない。両手を床につき、膝を引きずりながら進んでくる。
その身体には、塩がびっしりついていた。
肩、背中、髪、頬。海から上がったばかりのように濡れているのに、白い塩が肌にこびりつき、剥がれずに光っている。
葵が息を吸い込んだ。
女の顔が上がった。
目がなかった。
目のある場所には、黒い砂と、細かな貝殻が詰まっていた。口だけが開き、そこから海水が垂れた。
「ここ、私の浜じゃない」
佳乃は葵の手を引き、反対側へ走った。
階段へ向かう。だが廊下は伸びていた。民宿は小さな建物だったはずなのに、廊下の先が遠い。襖が何枚も並び、どの隙間からも水が流れ出している。壁紙の下から海藻が垂れ、佳乃の頬を撫でた。ぬるりとした感触に叫びそうになる。
「佳乃、後ろ!」
葵の声で振り返ると、廊下の床に塩の人影が浮かび上がっていた。
廊下いっぱいに、膝を抱えた女、這う男、小さな手が並んでいる。部屋の中にいた塩たちが、こちらへ出てきていた。人影は呼吸している。すう、はあ、すう、はあ。廊下全体が、生き物の肺のように膨らみ、沈む。
階段が見えた。
佳乃は駆け寄った。だが階段の一段目に足を置いた瞬間、そこが木ではないことに気づいた。
畳だった。
階段の段板が、すべて畳に変わっている。水を吸って黒ずみ、目の間から塩が吹いている。下へ続く階段ではない。畳の階段は暗い海の中へ沈むように、斜めに続いていた。
その下から、真紀の声がした。
「佳乃」
佳乃の心臓が跳ねた。
「真紀?」
「冷たい」
声は階段の下から聞こえる。泣いている。震えている。聞き慣れた真紀の声だった。
「助けて。足、痛い。何か噛んでる。佳乃、葵、置いてかないで」
葵が階段へ一歩踏み出した。
佳乃はその腕を掴んだ。
「駄目」
「でも真紀が」
「違う」
「真紀だよ!」
葵が泣き叫んだ。
階段の下から、また声がした。
「葵、早く。暗い。苦しい。こっちに来て」
佳乃は唇を噛んだ。血の味が塩辛さに混ざる。
「真紀なら、そんな言い方しない」
葵が佳乃を見た。
「真紀なら、私たちにこっち来いなんて言わない」
階段の下の声が止まった。
次の瞬間、真紀の声で笑った。
くつ、くつ、くつ。
水底から泡が上がるような笑いだった。
「じゃあ、誰なら来るの」
畳の階段の下から、いくつもの手が伸びた。
佳乃は葵を引き戻し、近くの部屋へ飛び込んだ。そこは物置のようだった。古い座卓、破れた座布団、使われていない扇風機、段ボール箱。佳乃は襖を閉め、座卓で押さえた。葵は隅で膝を抱え、歯を鳴らしている。
部屋の中は暗かった。窓が一つある。
佳乃は窓へ駆け寄った。
外を見た。
海ではなかった。
窓の外には、畳が広がっていた。
客室と同じ古い畳が、どこまでも、どこまでも続いている。だがそれは床ではない。畳は水の中に沈んでいた。薄暗い緑色の海水の底に、無数の畳が敷き詰められている。畳の目の間から白い塩が浮き、ところどころに人の形を作っている。膝を抱えた女、這う男、小さな手。すべてが水中でゆっくり呼吸していた。
遠くで、誰かの髪が揺れていた。
長い黒髪。
目のない女が、畳の海の中からこちらを見上げている。
佳乃は窓から後ずさった。
「外も駄目」
葵が顔を上げた。
「じゃあ、どうするの」
「分からない」
「分からないって何!」
「分からないよ!」
佳乃の声は泣き声になった。真紀の手を離した感触が指に残っている。違う、離していない。引きずり込まれた。そう言い聞かせても、指の間から消えた温もりが責めてくる。
襖の向こうで、水が押し寄せる音がした。
座卓が、ぎし、と動いた。
何かが襖の下から入り込んできた。黒い海水。海藻。白い塩。そして、歯だった。
小さな白い粒かと思った。だが違った。人間の歯だった。前歯、奥歯、欠けた歯、乳歯のように小さい歯。それらが波に運ばれ、襖の隙間から部屋へ流れ込んでくる。畳の上でからからと音を立て、塩にまみれて転がった。
葵が吐きそうな声を出した。
「やだ、何で歯が」
佳乃は押し入れの布団を見た。
ふと、最初の部屋で女将が布団を確認していたことを思い出した。敷く場所はこちらで見ますから。あの言葉。塩を避けるように歩いていた女将の足。畳の上に浮く人影。
ここでは、布団の下に何かがある。
なぜそんなことを思ったのか分からなかった。
けれど佳乃の手は、部屋の隅に畳まれていた敷布団へ伸びていた。葵が「何してるの」と震える声で聞いたが、佳乃は答えられなかった。
敷布団をめくる。
裏側を見た瞬間、葵が絶叫した。
布団の裏一面に、人間の歯が貼りついていた。
塩で固められている。灰白色の藻塩が接着剤のようにこびりつき、その中に歯がびっしり埋まっていた。数えきれないほどの歯。大人の歯も、子どもの歯もある。黄ばんだもの、黒く腐ったもの、根元に赤黒い筋が残るもの。歯はすべて、布団の裏でこちらを向いていた。
まるで敷布団そのものが、大きな口だった。
その歯の間から、女の声がした。
「ここ、私の浜じゃない」
布団が膨らんだ。
裏側の歯が、がち、がち、と噛み合わさる音を立てた。
佳乃は布団を投げ捨てようとしたが、歯の中から白い手が出て、佳乃の手首を掴んだ。冷たい。骨のように硬い指だった。佳乃は悲鳴を上げ、腕を振った。皮膚が裂け、塩が傷に入り込む。焼けるように痛い。
葵が佳乃の腰にしがみついて引いた。
「離して! 佳乃を離して!」
襖が破れた。
廊下から海水が流れ込んできた。畳の部屋に波が立つ。座卓が浮き、段ボール箱が崩れ、歯が水の上でからから鳴った。目のない女が、廊下の水の中から上半身を起こした。
髪が顔に貼りついている。
口から塩がこぼれている。
「帰して」
女は言った。
「私の浜へ帰して」
佳乃は泣きながら叫んだ。
「知らない! どこか知らない!」
「知ってる」
「知らない!」
「あなたたち、歩いた」
女の首がゆっくり傾いた。
「私の上を、歩いた」
足元の畳が大きく波打った。
佳乃は理解した。
客室の畳に浮く塩は、ただの塩ではなかった。あの夜、あの事故の日、海から上がった人たちの形だった。身元を確認され、家族に連れて帰られた者。帰る場所を教えられた者。だが一人だけ消えた女は、ここを浜だと思えなかった。ここが自分の帰る場所ではなかった。だから部屋は、何十年も、海へ戻ろうとしていた。
海で死んだものを並べた部屋。
帰れなかった女が、浜を探し続ける部屋。
そして今、その部屋は佳乃たちを海の底へ敷こうとしている。
葵が突然、佳乃の手首を掴む白い手に噛みついた。
佳乃は驚いて葵を見た。
葵は泣きながら、歯を食いしばっていた。白い手が緩む。佳乃は腕を引き抜いた。
「走って!」
葵が叫んだ。
二人は海水を蹴って廊下へ出た。女が伸ばした髪が足に絡む。佳乃は壁の海藻を掴んで転びそうになりながら進んだ。葵の息が後ろで荒く鳴っている。廊下の先に、かすかに階段ではない光が見えた。
玄関の光。
佳乃はそこへ向かって走った。
民宿の廊下は、もう建物ではなかった。左右の襖の向こうで、人が呻いている。畳の下から拳で叩く音がする。水が膝まで上がり、衣服が重い。壁紙の下から垂れた海藻が首に絡み、冷たい指のように肌を撫でる。
「佳乃!」
葵の声がした。
振り返ると、葵の足首に長い髪が巻きついていた。葵は廊下の水の中に倒れ、必死に手を伸ばしている。
「助けて!」
佳乃は戻った。葵の手を掴む。髪は生き物のように蠢き、葵を暗い廊下の奥へ引きずろうとしていた。
葵の爪が佳乃の手の甲に食い込む。
「痛い、痛い、足が、足が!」
髪の中から、真紀の声がした。
「葵、こっち」
葵の顔が凍りついた。
「真紀?」
「寒くなくなるよ」
「聞くな!」
佳乃は叫んだ。
だが葵の目から力が抜けていく。真紀の声が、葵の一番弱い場所を撫でているのが分かった。
「ひとりにしないで」
真紀の声が泣いた。
「葵だけ、逃げないで」
「違う、違うよ……」
葵は泣きながら首を振った。
佳乃は葵の頬を叩いた。
「真紀じゃない!」
葵の目が戻った。
その瞬間、葵は自分のマフラーを外し、足に絡んだ髪へ巻きつけた。
「佳乃、引っ張って!」
二人でマフラーを引く。髪がぶちぶちと千切れた。女の絶叫が廊下全体を震わせた。耳の中に塩を詰め込まれたような痛みが走る。壁から水が噴き出し、天井の蛍光灯が破裂した。
暗闇。
海水。
塩。
絶叫。
佳乃は葵の腕を掴み、走った。
玄関が見えた。
引き戸の向こうに、朝のような白い光がある。まだ夜明け前のはずなのに、外だけが青白い。佳乃は戸に手をかけた。開かない。古い木枠が水を吸って膨らんでいる。
「開いて、お願い、開いて!」
葵が一緒に戸を引いた。後ろから、ぺた、ぺた、と女の這う音が近づく。水の中を、いくつもの手が進んでくる。
佳乃は全身の力で戸を引いた。
がたん、と音がして、戸が少し開いた。
冷たい外気が入ってきた。
海の匂いではなかった。
朝の土の匂い、濡れたアスファルトの匂い、錆びた自転車の匂い。
現実の匂いだった。
二人は隙間から転がるように外へ出た。
背後で女が叫んだ。
「ここじゃない!」
戸が内側から叩かれる。
「私の浜じゃない!」
佳乃と葵は玄関前の砂利に倒れ込んだ。息ができない。服は濡れ、髪から水が滴っていた。空はまだ暗く、東の端だけが薄く白んでいる。民宿は静かだった。二階の窓も、廊下の明かりも消えている。まるで何も起きていないように。
戸が細く開いた。
女将が立っていた。
割烹着姿のまま、顔色を失っている。
「塩を」
女将は佳乃たちを見下ろし、震える声で言った。
「踏みましたね」
葵が泣きながら叫んだ。
「真紀が! 真紀が中に!」
女将は目を閉じた。
「呼ばれましたか」
「助けてください!」
「夜明けまでは、開けてはいけなかった」
「何言ってるんですか!」
佳乃は立ち上がろうとして、膝から崩れた。身体が震え、うまく力が入らない。
「警察、救急車、早く!」
女将は玄関の中を振り返った。
その暗がりの奥から、かすかに真紀の声がした。
「佳乃」
佳乃の全身が凍った。
「佳乃、寒い」
葵が耳を塞いだ。
「やめて、やめて!」
女将は戸を閉めようとした。だがその前に、暗がりから白い手が伸び、女将の足首を掴んだ。
女将の顔が歪んだ。
「あ」
それは短い声だった。
次の瞬間、女将の身体が玄関の中へ引き倒された。割烹着の裾が跳ね、指が戸の敷居を掴む。佳乃はその手を掴もうとしたが、葵が泣き叫んで佳乃を引き戻した。
女将の爪が敷居に食い込み、剥がれた。
血が少し出た。
だがすぐに、血は白い塩に変わった。
「開けないで」
女将が最後に言った。
「塩は、払わないで」
戸が閉まった。
中から、水音がした。
それきり、民宿は静かになった。
夜が明けて、近所の人が通報した時、民宿しおまちの二階角部屋には、誰もいなかった。
相馬佳乃と日向葵は玄関前で震えているところを保護された。二人の服は海水で濡れていたが、その夜、海は満潮でも荒天でもなく、民宿の周囲に浸水の跡はなかった。
水沢真紀と女将は見つからなかった。
二階の角部屋には、三組の布団がきちんと畳まれていた。畳は乾いていた。ただ、畳の目に沿って白い塩が浮いていた。
膝を抱えた女。
這っている男。
小さな手。
そして、横向きに倒れて片手を伸ばした若い女の形と、玄関へ向かって這うような年配の女の形。
警察官の一人が、何気なくその塩を靴先で払おうとした。
佳乃は病院へ運ばれる担架の上で、それを見た。
喉が裂けるほど叫んだ。
「触らないで!」
その声に、警察官の足が止まった。
畳の下から、細い息が聞こえた。
すう。
はあ。
すう。
はあ。
佳乃の耳の奥で、女の声がいつまでも濡れていた。
ここ、私の浜じゃない。

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