第43話 天袋の中の拍子木

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第43話 天袋の中の拍子木

 押し入れの天袋から、拍子木の音が聞こえた。  カン。  カン。  乾いた木と木を打ち合わせる音だった。  最初に聞こえた時、長谷川栞は、外の音だと思った。  古い木造アパートだった。築年数は、大家が「まあ、古いですよ」と笑って濁すくらいには古い。二階建てで、外階段は雨の日に鉄の匂いがした。廊下は歩くたびに軋み、隣室の咳も聞こえる。部屋は六畳の和室に小さな台所。押し入れがあり、その上に天袋がある。  家賃は安かった。  それだけで、栞には十分だった。  転職したばかりで、収入は不安定だった。前の部屋の更新料が払えず、急いで探した物件だった。和室も、古い押し入れも、天袋の薄暗さも、最初は「まあ住めればいい」と思った。人間、金がないと生活の基準がどんどん原始に戻っていく。雨風しのげれば勝ち。虫が少なければ優勝。悲しい競技である。  その夜、栞は布団に入っていた。  時刻は午前一時過ぎ。スマホを見すぎて目が疲れ、ようやく眠ろうとしていたところだった。部屋の豆電球だけをつけ、押し入れの襖は閉めてある。天袋の小さな襖も、もちろん閉まっていた。  カン。  カン。  音は、押し入れの上から聞こえた。  最初は遠かった。  夜回りの拍子木。  そう思った。  昔の町内会で、冬の夜に「火の用心」と言って歩くあれ。テレビや古い映画でしか見たことがない。今の時代に、こんな夜中に拍子木を鳴らして歩く人がいるのかと思ったが、この辺りは昔からの住宅街だった。近所に古い家も多い。そういう習慣が残っていても、不思議ではない。  カン。  カン。  けれど、音は外ではなかった。  部屋の中。  押し入れの上。  天袋の奥。  木の板一枚を隔てた、すぐそこから聞こえている。  栞は布団の中で目を開けた。  カン。  カン。  拍子木の音が鳴るたび、部屋の空気が少しずつ乾いていく気がした。畳の匂いが薄くなり、かわりに焦げた木のような、古い煙のような匂いが鼻の奥に引っかかった。  そして、豆電球が消えた。  ふっ、と。  部屋は真っ暗になった。  栞は息を止めた。  ブレーカーが落ちたのかと思った。  だが、スマホの充電ランプは点いている。冷蔵庫の音もしている。停電ではない。天井の照明だけが消えた。  カン。  カン。  次の拍子木の音で、玄関脇の足元灯が消えた。  小さな青白い灯りが、すっと闇に飲まれる。  カン。  カン。  今度は、スマホの画面が一瞬暗くなった。  栞は慌ててスマホを掴んだ。  画面はすぐ戻ったが、バッテリー残量が八十パーセントから、急に三十パーセントまで落ちていた。そんなはずはない。充電器につないでいたのに。  天袋の中から、老人の声がした。 「火の用心」  しわがれた男の声だった。  低く、乾いている。 「火の用心」  声は遠いようで、耳元のようでもあった。  栞は布団をかぶった。  見たくなかった。  聞きたくもなかった。  だが、拍子木の音は続く。  カン。  カン。  鳴るたびに、部屋から光が消えていく。  スマホの画面。  充電ランプ。  冷蔵庫の小さな表示。  全部が一つずつ消える。  最後に、窓の外の街灯まで消えた。  部屋は、完全な闇になった。  古い木の匂いが濃くなる。  焦げ臭い。  煙の匂い。  喉が少し痛くなる。  栞は布団の中で震えながら、朝まで過ごした。  翌朝。  照明は普通についた。  スマホも充電されていた。バッテリーは九十二パーセント。足元灯も、冷蔵庫の表示も、何も異常はない。  押し入れの天袋も閉まっている。  栞はしばらく見上げていた。  天袋の襖は、普通の古い襖だった。黄ばんだ紙。木枠。小さな丸い引き手。そこに何かがいるようには見えない。  ただ、天袋の下の壁に、黒い煤のようなものが少しついていた。  指で触れると、黒く汚れた。  焦げた匂いがした。  栞はすぐに大家へ電話した。 「天袋から変な音がします。拍子木みたいな」  電話口の大家は、少し黙った。 『拍子木?』 「はい。夜中に。あと、焦げ臭くて」 『焦げ臭い?』  その声が、ほんの少し硬くなった。 「古い木の匂いというか、煙みたいな」 『……火は使っていませんよね』 「使っていません」 『あの部屋、ガスコンロも新しくしたばかりですし、配線も見たはずですが』 「天袋、確認してもらえませんか」  大家は午後に来ると言った。  栞は仕事を休んだ。  在宅の入力作業だったので、最低限の連絡だけ入れた。体調不良。最近その言葉が万能すぎて、もう人生全体が体調不良みたいなものだと思う。実際、怪異に遭った翌朝の健康状態など、誰が測ってくれるというのか。  午後、大家が来た。  七十代くらいの男性で、白髪交じりの髪を短く刈っている。穏やかな顔をしているが、部屋に入った瞬間、天袋の方を見て表情を変えた。 「煤が出ましたか」 「知ってるんですか」 「昔の建物ですから」  大家は曖昧に言った。  脚立を立て、天袋の襖に手をかける。  開ける前に、彼は一瞬だけ手を止めた。 「夜は開けないでください」 「どうしてですか」 「昔のものが入っていることがあります」 「物置ってことですか」 「そういう意味でもあります」  説明する気がない人間の言葉だった。人類、怖い情報を小出しにする癖がある。怪談なら効果的だが、住人相手にやるな。非常に困る。  大家は天袋を開けた。  中には何もなかった。  奥行きの浅い収納。古い木の板。埃。隅に小さな蜘蛛の巣があるだけ。拍子木も、老人も、煤だらけの何かもない。  ただ、奥の板が少し焦げていた。  黒く、細長い跡。  まるで、火のついた棒を押しつけたような跡だった。  大家はそれを見て、明らかに顔をしかめた。 「これは……前より濃いな」 「前より?」  大家は答えなかった。  天袋の奥に手を伸ばし、板を軽く叩いた。  こん。  中は空洞ではなさそうだった。  それなのに、板の奥から、かすかに音が返ってきた。  カン。  大家の手が止まった。  栞も聞いた。  天袋のさらに奥。  壁の中。  どこか遠い場所で、拍子木が鳴った。  カン。  もう一度。  大家はすぐに天袋を閉めた。 「しばらく様子を見ましょう」 「様子を見る音じゃないと思います」 「夜は照明を全部消さないでください。それと、天袋は開けないで」 「何なんですか」  大家は玄関へ向かいながら、小さく言った。 「昔、この辺りで大きな火事がありましてね」  栞は黙った。 「このアパートが建つ前、ここには長屋がありました。火の回りが早くて、何軒も焼けたそうです」 「それで、あの天袋は」 「火事の時、天袋に隠れた子どもがいたと聞いています」  栞の背中が冷えた。 「子ども?」 「煙が怖くて、押し入れの上に隠れた。大人たちは逃げたと思っていた。夜回りの老人が、最後まで拍子木を鳴らしながら探していたらしいですが」  大家はそこまで言って、口を閉じた。 「見つからなかったんですか」 「焼け跡からは、小さな骨が出たそうです」  天袋の方から、焦げた匂いがした。  大家は振り返らずに言った。 「その後から、この土地の押し入れや天袋で、拍子木が鳴ることがあると言われています」 「なんで貸したんですか」  つい、責める声になった。  大家は深く息を吐いた。 「ずっと鳴らなかったんです。何十年も。前の方も、その前の方も、何も言わなかった」 「じゃあ、なんで今」 「分かりません」  大家は玄関を開ける前に、少しだけ声を低くした。 「ただ、もし『火の用心』の声が近くなったら、返事はしないでください」 「返事?」 「はい、とか、います、とか。そういう返事です」 「どうして」 「中にいると、知らせることになります」  その夜、栞は部屋中の明かりをつけた。  天井照明。  台所。  玄関。  洗面所。  スマホのライトまで枕元に置いた。  天袋の前には、カラーボックスを置いた。意味がないのは分かっていたが、何かで塞ぎたかった。  午前一時過ぎ。  カン。  拍子木が鳴った。  栞の心臓が跳ねた。  天袋の中から。  昨日より、近い。  カン。  カン。  玄関の足元灯が消えた。  カン。  台所の照明が消えた。  カン。  洗面所の電気が消えた。  部屋の明かりが、一つずつ落ちていく。  栞はリモコンで天井照明を点け直そうとした。  反応しない。  壁のスイッチを押してもつかない。  カン。  スマホのライトが消えた。  画面は真っ暗。  ボタンを押しても反応しない。  残ったのは、部屋の天井照明だけだった。  その光も、拍子木が鳴るたびに弱くなる。  カン。  白い光が黄色くなる。  カン。  黄色が、赤くなる。  カン。  部屋全体が、火事の夜のような赤い光に染まる。  焦げ臭さが強くなった。  喉が痛い。  目も痛い。  煙は見えない。  だが、部屋の空気は確実に煙を含んでいた。  天袋の中から老人の声がした。 「火の用心」  昨日より近い。 「火の用心」  カン。  カン。  カラーボックスが、天袋の前から少しずれた。  誰も触っていない。  内側から、何かが押している。 「火の用心」  老人の声。  その奥から、子どもの泣き声が聞こえた。  小さく、喉が詰まったような泣き声。 「ここ」  子どもが言った。 「ここにいる」  栞は口を押さえた。  返事をしてはいけない。  大家に言われた。  中にいると知らせることになる。  カン。  カン。  天井照明が消えた。  部屋は暗闇に落ちた。  直後、天袋の襖の隙間から、赤い光が漏れた。  中が燃えているようだった。  襖紙の縁が、内側から赤く照らされる。  焦げた匂い。  熱。  いや、熱ではない。  熱いはずなのに、肌に触れる空気は冷たい。  火事の記憶だけが、熱のないまま部屋に溢れている。  天袋の中で、拍子木が鳴る。  カン。  カン。 「火の用心」  老人の声が言った。 「火の用心」  続いて、別の声。  子どもの声。 「開けて」  栞は動かなかった。 「ここ、熱い」  声がした。 「煙が入る」  小さな咳。  ごほ。  ごほ。 「開けて」  天袋の襖が、内側からかたかた揺れた。  栞は震えながら後ずさった。  畳の上を、黒い煤が這ってきた。  天袋の下から、壁を伝い、畳へ落ちている。黒い粉が、細い線になって栞の方へ伸びてくる。  その煤の中に、小さな足跡がついた。  裸足の子どもの足跡。  焦げた足跡。  天袋から降りたわけではない。  煤の中に、勝手に足跡が浮かんでいく。  部屋の中央へ。  栞の布団へ。 「開けて」  子どもが言う。 「もう、暗い」  栞の目に涙が浮かんだ。  声が、あまりにも苦しそうだった。  助けなければ、と思ってしまう。  今さら助けられるわけがない。  分かっている。  それでも、天袋の中で子どもが泣いている。  閉じ込められ、煙に巻かれ、火に追われ、助けを呼んでいる。  栞は立ち上がった。  天袋へ近づく。  カラーボックスを退かす。  襖の引き手に触れる。  熱い。  いや、熱いと思っただけで、触れた指は凍るように冷たかった。  中から老人の声がした。 「返事をするな」  栞は手を止めた。  子どもの声ではない。  老人。  夜回りの老人。  「開けるな」  老人の声は、拍子木の音の隙間から聞こえた。 「それは、もう子どもではない」  天袋の中の子どもが、泣き止んだ。  部屋が静かになる。  次に、天袋の奥から、低い笑い声がした。  子どもの声だったものが、違う声に変わる。 「言わなくていいのに」  襖が、内側から少し開いた。  ほんの指一本分。  その隙間から、真っ黒な煙が漏れた。  煙の中から、手が出てきた。  小さな手ではなかった。  焦げた大人の手だった。  皮膚は黒くひび割れ、指先は炭のように細い。爪はなく、ところどころ赤い肉が見えている。その手が、天袋の縁を掴んだ。  栞は悲鳴を上げた。  焦げた手が、ゆっくり伸びる。  届かないはずの高さから、異様に長く伸びてくる。  腕。  肘。  肩。  黒く焼けた腕が、天袋の隙間からずるずると垂れ下がる。  その奥で、老人が拍子木を鳴らしていた。  カン。  カン。 「火の用心」  声は、泣いているようにも聞こえた。 「火の用心」  焦げた手が、栞の顔へ向かって伸びた。  指先が、頬に触れそうになる。  その瞬間、部屋の火災報知器が鳴った。  けたたましい音だった。  ピーピーピー。  古いアパートには似合わない、新しい警報音。  栞が引っ越しの日に、自分で念のため買ってつけた小型の煙感知器だった。安物だった。正直、飾り程度だと思っていた。人間、たまにはまともな買い物をするらしい。珍しい。褒めてやる。今だけ。  警報音が鳴った瞬間、焦げた手が震えた。  天袋の奥で、老人の拍子木も止まる。  子どもの声が、低く歪んだ。 「鳴らすな」  火災報知器は鳴り続ける。  ピーピーピー。  隣の部屋から物音がした。  誰かが壁を叩く。 「火事ですか!」  現実の声。  生きている人の声。  栞は叫んだ。 「助けて!」  その声に反応するように、天袋の中の赤い光が弱まった。  焦げた手が引っ込もうとする。  栞は玄関へ走った。  部屋の明かりは消えたままだが、廊下には非常灯の光がある。玄関を開ける。隣人の男性が立っていた。奥の部屋からも住人が顔を出している。  廊下に出た瞬間、栞の部屋の中から拍子木の音が響いた。  カン。  カン。  しかし今度は、天袋の中ではない。  廊下の奥。  アパート全体の壁の中。  あちこちから、拍子木が鳴っている。  カン。  カン。  カン。  住人たちがざわめいた。 「何の音?」 「焦げ臭くない?」 「煙?」  その時、アパートの一階から白い煙が上がった。  本物の煙だった。  誰かの部屋の台所から、焦げた匂いが広がる。  火災報知器が、栞の部屋だけでなく、廊下の別の場所でも鳴り始めた。  住人たちは慌てて外へ逃げた。  原因は、一階の住人が火をつけたまま鍋を放置して眠っていたことだった。  大事にはならなかった。  消防が来て、すぐに収まった。  もし栞の部屋の報知器が鳴らなければ、発見はもっと遅れていたかもしれない、と消防隊員は言った。  大家は、青ざめた顔でそれを聞いていた。  夜が明ける頃、栞は大家に言った。 「昨日のあれは、火事を知らせてくれたんですか」  大家は黙っていた。  栞も分からなかった。  老人は、たしかに「返事をするな」と言った。  だが、天袋から出てきた焦げた手は、栞を掴もうとしていた。  守るものと、連れていくもの。  同じ場所に、両方がいるのかもしれない。  火事の夜に残ったものは、一つではなかったのだろう。  老人の夜回り。  助けを求める子ども。  子どもの声を真似る、焼けた何か。  全部が、天袋の奥に詰まっている。  翌日、大家は業者を呼び、天袋の点検をした。  襖を外し、奥の板を剥がす。  中から、黒く焦げた拍子木が一組出てきた。  半分炭になっている。  そのそばに、小さな木札があった。  火の用心  そして、奥の板に、焦げた手形がいくつもついていた。  大人の手。  子どもの手。  そのうち一つだけが、板の奥ではなく、こちら側へ向かって伸びているように黒く残っていた。  大家は、すぐに処分すると言った。  だが、その日の夜、拍子木は消えていた。  業者が一時的に置いた玄関先の箱からなくなっていたという。  誰も持ち出していない。  防犯カメラにも何も映っていない。  ただ、箱の底に煤で文字が残っていた。  夜回り中  栞はその部屋を出た。  大家は、違約金はいらないと言った。  当然だ。むしろ慰謝料を請求したい。とはいえ、天袋に焼けた手が出る物件に住んだ精神的損害をどう見積もるのか。賃貸契約書に「拍子木による睡眠妨害」の項目はない。人間社会、現実の地獄への対応が遅すぎる。  新しい部屋には、押し入れがない。  クローゼットだけの洋室にした。  天袋など、もちろんない。  それでも、最近、夜中に音がする。  カン。  カン。  最初は外の音だと思った。  だが、違う。  音は、クローゼットの上の壁から聞こえる。  そこには収納も何もない。  ただの白い壁だ。  それなのに、夜中、拍子木が鳴る。  カン。  カン。  鳴るたびに、部屋の明かりが一つずつ消えていく。  玄関灯。  台所。  スマホの画面。  そして最後に、部屋の隅が赤く光る。  焦げた匂いがする。  昨日の夜、壁の中から老人の声がした。 「火の用心」  その後ろで、子どもの声が笑った。 「今度は、開けるところがないね」  今夜、栞は火災報知器を三つ置いている。  電気も全部つけている。  それでも、さっきから壁の上の方が黒く煤けてきた。  白い壁に、細長い隙間が浮かんでいる。  まるで、そこに天袋の襖があるように。  カン。  カン。  拍子木が鳴る。  明かりが、一つ消える。  また一つ。  そして壁の向こうから、焦げた指が白い壁紙を内側から押している。  もし押し入れの天袋から夜中に拍子木の音が聞こえたら、天袋を開けてはいけない。  「火の用心」と老人の声がしても、返事をしてはいけない。  そこには火事を知らせる声もある。  けれど、その声に紛れて、焼け残った手が今も誰かを掴もうとしている。  火の用心。  そう聞こえた時には、火だけに気をつけても、もう遅い。

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