6人が本棚に入れています
本棚に追加
白いサークルで出崎塁が舞った。少なくとも、俊太の目にはそう映った。
投げ放たれた円盤がサイドネットに突き刺さる。
審判員が赤いフラッグを掲げた。ファウル。
試技を終えた塁は納得いかない様子で首を傾げつつ、右手首をスナップさせて、その感覚を気にしている。
スコアボードに横並びのFの表記がふたつ続いた。
深くかぶったキャップの影で、俊太は「ああ……」と息を漏らした。
都合三度のチャンスが与えられる男子円盤投げの予選で、塁に残されている試技の回数はあと一度だけだった。
一年と少し前。高校二年生だった春に、出崎塁は、俊太と共に所属していた弱小の野球部から、同じ高校の陸上部へと転部していった。
この高校総体は、選手として出場できる最後の大会である。このままでは「記録なし」で終わってしまうかもしれない。
そんな切迫した状況であるにも関わらず、むん、と下唇を突き出した塁からは、緊張や焦りの色は伺えなかった。子供の時からずっと同じ。「次はどう投げるか」を考えているときの表情である。
競技場の端からフィールドをこっそりと眺める俊太の方が、よほど手に汗を握っているようだった。もうチームの仲間でもないのになんでやろな、と俊太は苦笑いを浮かべた。
塁は中学生の頃から一番手のピッチャーだった。
チームのエースとして培ってきた強心臓。身長のわりに長い手足。股下までグッと沈みこむピッチングフォームを支えていた強靭な下半身。「塁に出る」なんて、野球をするために生まれてきたような名前なのに、野球を通して得た身体能力を、他競技にしれっと転用できる切り替えの早さ。
塁の非凡な要素は、野球部に所属していた一部の先輩たちから疎まれる部分であったし、長年バッテリーを組んできた俊太も不満に思うことはあった。
無礼、無愛想、無頓着。
誰が相手でも態度を変えることのない塁は、部員や他校の選手とトラブルとなることも多く、そのたびに俊太は、少なからず冷や汗をかかされてきた。
やむを得ず仲裁の真似事をしているうちに、顧問やチームメイトからは妙な信頼を集めていたようで、先輩たちが引退するのと同時にキャプテンに任命されてしまった。
身の丈に合わない役割と、俊太は今でも感じている。
主将としての立ち振る舞いに四苦八苦するたびに、むん、と下唇を突き出した塁の無愛想な表情が脳裏をよぎった。
「お前が途中で投げたからや」
俊太がそう言って塁の胸ぐらを掴んだのは、去年の冬。放課後の渡り廊下だった。
その日、俊太は職員室へ向かう途中だった。
毎年慣例的に行われていた冬季の練習内容に、部員から不満が上がっていたのだ。苦心して作り直した一か月分の練習メニューについて、名ばかりの顧問である数学教師から一応の承認を受ける必要があった。
ノートを抱えて渡り廊下を歩いていると、正面からジャージを着た一人の学生が歩いてきた。塁だった。
これから練習に向かうのか、アシックスのロゴが入ったシューズバックを肩からぶら下げている。野球をしていた頃、塁はいつもミズノのスパイクを履いていた。練習を終えた後、その手入れを一度も欠かしていなかったことを、俊太は知っている。
一心不乱にスパイクを磨く、いつかの塁の後ろ姿が一瞬フラッシュバックした。身体の奥で熱く凝っていた何かが、下っ腹の方からドロリと溢れた気がした。
すれ違う直前、目の前にいる人間が、かつての相棒であることにようやく気付いたのか、塁は僅かに目を見開いた。茶褐色の瞳が小さく揺れていた。次の瞬間、俊太は塁に詰め寄っていた。
「なんでや。なんで辞めた。俺になんにも言わんで、おまえ、勝手に」
胸ぐらを両手で思いっきり掴み上げたのに、塁の身体はビクともしなかった。手の甲で触れるジャージ越しに、その胸板が数か月前に比べて格段に厚くなっていることが俊太には分かった。
脳みそがカッと熱くなる一方で、今のこいつならどんな球を投げるのかな、という考えが頭をよぎっていた。
「……おれ、うまく出来んから。先輩とも、みんなとも」
ぼそ、と呟いた塁の低い声が俊太の耳に届いた。その声は震えていた。
「お前が逃げたからや。途中で勝手に投げたからや」
口から出た言葉は、ほとんど叫びのようだった。塁は唇をきつく結び、自分の胸ぐらを掴む俊太の手をゆっくりと押しのけた。そうして身をかがめる。拾い上げたのは俊太のノートだった。
「ごめん」
塁は俯いたまま、俊太にノートを押し返した。
黙って去っていく塁の後ろ姿を、俊太は見つめることしか出来なかった。
深い呼吸のあとに一礼した塁が、投擲サークルに足を踏み入れていく。三度目、最終の試技だ。
離れた位置から観戦をする俊太の姿に、塁はおそらく気づきもしていない。それでいい、と俊太は思う。集中しろ集中、と口の中で呪文のように呟く。
右手に円盤を持った塁が、ゆっくりと重心を落としていく。身体全体をぐわんと捻じり、反動のエネルギーを回転へと加えていく。野球のピッチングとは全く異なる動き。年に数度ある大会の、たった数回の投擲の為に、塁が手放したものと、新たに得た物のことを俊太は考える。
それはまるで舞いのようにも見えた。
ただ物を遠くに投げる。その為だけに洗練された、美しい回転動作。
塁の右足がサークルを蹴る。
先行して空を切った左腕のあとを追うように、塁の右腕が円盤を押す。いや腕だけじゃない。深く沈んだ腰、下半身の筋肉、一度収縮したそれらのバネを解き放つように、塁の身体が、回転の軌跡を描く。
いけ。
飛ばせ。
気が付けば、俊太はそう声に出していた。
フィールドに放物線が描かれていく。
青空に塁の咆哮が響き渡った。

最初のコメントを投稿しよう!