届かぬ沼

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 雀の声が茶屋に朝を告げる。  千代鶴は馴染みを送り出した後、町娘の姿に身をやつし、近頃行きそびれていた神社へ向かった。  初めて人を殺めた時、怖くて仕方なくなり、寂れた神社で一心不乱に謝り続けた。何に対して謝るでもなく、「ごめんなさい」という言葉しか頭に浮かばなかった。  それでも、自分が殺めたことに対しての罪悪感は一切湧かなかった。ただ何となく怖くてたまらない。それだけだった。  今では、命を刈り取ることの罪くらいは理解するようになった。だとしても、自分の行為に別段特別なことは感じないし、罪の意識を持ったところで、勤めが終わるわけでもない。  だが、なぜか神社には来てしまう。千代鶴自身も、そんな奇妙な行動を取る自分に呆れてはいる。  神社は相変わらず寂れていて、モノノ怪でも出そうな様子だ。手を汚している自分にはこのくらいがちょうどいい。階段の前に立ち、しばし黙祷する。鳥居をくぐって社に詣でることはしない。  黙祷が終わると、何事もなかったように神社を後にした。  ***  道すがら、以前勤めていた陰間茶屋の近くを通る。四年前になるだろうか。いきなり引き抜きがあったのは。  ここは橋のたもとにあり、川のせせらぎが好きで昔は橋から川を覗いていた。今日もそんな気分になり、橋に手をかけぼんやりしていると、よく通る声が自分に向かい飛んできた。 「おまえ、せんか?!」  自分の古い名。思わず振り返ると懐かしい顔があった。 「弥彦?」  名を呼ばれた青年は破顔し、せんの隣に並んだ。 「なっつかしいな! おまえ、前よりべっぴんになったな、へへ」 「あのさ、そこ照れないでくれない?言われて恥ずかしくなるんだけど」  ツンと返された言葉に、弥彦はおどけて肩をすくめる。 「相変わらずキツイこって」 「君は相変わらず元気でうるさいな」  ぷっとお互い顔を見合わせて笑った。  弥彦はせんよりやや年上で、以前の茶屋時代は勝手に兄貴分気取りされていたものだ。今では背が伸びきって頭ひとつ高い。女の姿をさせられている自分とは違いたくましい。 「ちゃんと飯食ってっか?」  感慨に耽るせんに、見当違いの心配をしてくる。妙に真剣な顔をするので、少し笑った。 「おいおい、こっちは本当に心配してるんだぞ」  相変わらず優しいやつだ。弥彦の温かさが懐かしく、せんは袖を口元に当てクスリと笑う。 「いい男になったね。いつか座敷に来なよ」  大袈裟に弥彦がひゃー! と言いながら手を挙げる。が、その顔は嬉しそうだ。 「おまえの座敷なんて行ける頃にゃあお互いじーさんだぜ?」 「さっさと出世しなよ。そろそろ役来てるんじゃない?」  茶屋は役者を育てる場でもある。幼い頃、他の子らと共に諳んじた演目で遊んでいたものだ。  弥彦はドンと橋の手摺を掴み、川の向こうへ目を向けた。そして振り返る。 「おうよ! ついに舞台に上がれる身分になったんだぜ! 明日は初披露だ。やっとこの日が来た。俺は絶対立役者まで登りつめるぞ」  振り向き笑う弥彦の笑顔。せんの胸が跳ねた。  眩しくて眩しくて……弥彦の裾をギュッと掴む。 「そっか。じゃあ、お祝いしなくちゃね」 「ん? どこ行くんだよ。おい、せん!」  弥彦の裾を掴んだまま神社へ向かう。旧友の門出を祝うのだ。少しくらい神様も許してくれるだろう。 「あれ? ここって昔よく遊んだとこじゃねーか。相変わらず気味わりぃ……って何やってんだよ」 「誰も来やしないさ」  社の扉を開くと中は空っぽだった。こういう所で逢い引きをする者がいると聞いたことがある。  せんの意図を察した様子の弥彦は、黙って社の中に入った。パタリと扉を閉めると中はほとんど光が射さない。  弥彦の耳に衣擦れの音が聞こえた。せんが帯を解いている。 「……それ、俺の仕事な」  少女のようにほっそりとしたせんの腰を優しく抱き寄せ、そっと首に口付けながら帯を解いてゆく。隙間からこぼれる光がせんを照らす。緩んだ襟首から白い肌が覗く。弥彦は目を細めた。 「小さい頃からよくくっついて寝てたね」 「そうだな。いつだったかな、おまえを抱いたのは」  お互いの過去を惜しむように、ゆっくりと口付け合う。 「僕が出ていく前の日だよ。二人で少しふざけちゃったね……」 「ふざけてなんかなかったよ。俺はな、今も変わらず、おまえが……」  当たり前のように、いつも傍にいたせん。  いなくなってから思い出さない日はなかった。いても立ってもいられず、暇さえあればせんのいる茶屋へ行き、外から少しでも姿が見えることを期待した。  時折、障子戸から垣間見える、着飾ったせん。あまりに綺麗になり過ぎて遠い存在に感じても、焦がれ続け、いつか必ず上客になってせんに会いに行く。そう決めて厳しい稽古に打ち込んできたのだ。  せんは弥彦の口にそっと指先を当てる。その先を言わせてはいけない。 「将来の立役者が、ダメだよ」  暗闇に慣れた目にせんの微笑みが浮かぶ。弥彦はたまらず掻き抱いた。 「おまえが好きだよ……」  弥彦は壊れ物を扱うようにそっとせんの背筋に触れ、唇をゆっくり重ねる。 「せん……好きだ、せん……」 「ダメだよ……僕はそういうんじゃ……」  ほんの少し弥彦を労うつもりだった。それなのに……。せんは彼に飲まれる自分が止められなくなってゆく。 「ダメなんて、言うなよ」  重ねた両手。指の細さは、せんを愛し守るべきものだと弥彦を掻き立てる。 「弥彦……」  弥彦が愛おしい。こんな自分を好いてくれる彼が。 「僕も……」  だが、愛を口にしてはいけない。自分は、商売道具だ。 「言えよ……せん」  涙が滲む。全てを受け入れてくれると言うのか。  華やかさで誤魔化されたガラクタを。  傍にいたい。それが許されるなら。 「せん、言って欲しい……頼む」  弥彦の真っ直ぐな瞳。せんは愛しさに胸が張り裂けそうだった。 「俺はおまえが好きだ。好きで好きで……。やっと手に……もう離したくねぇ」 「……僕も、弥彦が」  彼が欲しい、彼の傍にいたい。一時でもこの熱に当てられ飲まれてしまいたい。わななくせんの口は弥彦への愛を告げていた。 「好き……弥彦。全部、ちょうだい」 「せん……いくらでもやるよ」  弥彦の腕の中で幸福に身を震わせたせんは、目を閉じた。  愛し合ったのも束の間、時は無情にも過ぎた。互いの居場所に戻らねばならない。  弥彦は優しくせんの頬を撫でた。その手を両手でそっと掴むと、せんの目から涙がこぼれた。 「その……悪かったな」 「え?」  弥彦は視線を逸らしてバツの悪そうな顔をする。今頃照れているのか、ぶっきらぼうな言い方に、せんは小さく笑う。 「ふーん。君って僕のこと本当に好きなんだね」  泣きながらいつもの調子でニヤニヤとふざけてくるせんの唇に、弥彦は軽く音を立てて口付ける。すると、まるで生娘のような反応をされ、さらに照れた。 「ああそうだよ。今さら隠すか。おまえはさ、その……良かったのかよ。なんか無理やり言わせちまったような……」  せんは微笑みゆっくりと首を振る。先刻までは確かに自分は「せん」でいられた。だが、自分は「千代鶴」だ。 「嬉しかった。でも、こういうのはこれで最後にしよう。最初で最後かな」  声を震わせながらも、作られた美しい微笑みを向けてくるせん。弥彦は再び抱き寄せ、決意を固めて彼に囁く。 「せん、ここを出よう」  弥彦の肩越しにせんは目を見開く。言葉が出ない。そんな彼に弥彦は続ける。 「ここを出て二人で暮らすんだよ。郭を出てどこかに行こう」 「でも立役者は? 夢だったんでしょ?」 「あれはおまえを買うためだ」 「そんな……何考えてんだよ」 「おまえには足抜けさせることになるが、苦労はさせねぇ」  断らなければ。  だが、こんな地獄から抜け出し、真に愛し愛される道を望んでいいのなら。 「弥彦、そのセリフは女郎に言う言葉だよ」 「女だの男だのそれがどうした。俺は子供ん時からおまえしか見てねぇ。離れ離れになってから、俺がどんな想いで過ごしてたか分かるか?」 「弥彦……」 「俺はもうあんな思いはごめんだ。ここに連れてこられて、社に入った時に決めたんだ。おまえが俺を好いてくれるなら」  弥彦はせんの儚い瞳に、自分を焼き付けるよう強く見つめた。 「おまえを攫う」  力強い言葉をせんは素直に受け取れなかった。  弥彦の気持ちは痛いほど嬉しい。愛しい気持ちも偽りはない。だが、弥彦は自分が……殺しをしていることを知らない。  そして、機密情報を持つせんは決して逃げられないことも。  そうだった。自分はふたつの顔を持つ道具。所詮人並みの幸せなど望めなかったのだ。伝えなければ。  でも、どう言えばいい?  迷うせんとは逆に、カラッと笑いながら弥彦は着物に袖を通した。 「明日、丑の刻にここで待つ。まあ、来なけりゃ諦めるさ」 「弥彦……もっと良く考えよう?」 「ばーか、前から何度も考えてたよ。本当は立役者になって座敷に行った方が格好付いたけどな。考えが変わった。おまえを攫うよ」  楽しい話でもするように語る弥彦に、せんは不安が湧き上がる。  だけど、本当に逃げ切れるとしたら? 「じゃあ、俺行くわ。一緒じゃまずいだろ? 待ってるから!」 「弥彦!」  弥彦は手を振って社を出ていってしまった。  パタリと閉じられた扉を唖然と眺めるせんの耳に、微かな物音が響く。 「見ていたんだろ?」  社の外に冷えた声をかけた。  ガサッ  気配は消えた。せんは立ち上がり目を瞑って上を向いた。  ***  茶屋に戻ると、いつものように主が指令を下した。 「弥彦……ですか?」  やはりと思いつつ尋ねた。 「そうだよ。そいつはウチの宝を盗もうとしている不届き者でね。千代鶴、頼んだよ」  千代鶴は黙って俯く。 「どうした? 何か気になるのかい?」  わざとらしい主の言葉に頭がすっと冷静になった。 「いいえ。万事心得ました」  茶屋の勤めが終わるや、闇に紛れ駆け出した。  ***  階段を登り社に着くと、弥彦が立っていた。 「せん! 来てくれたのか!」 「待った? ごめん、遅くなっちゃった」  これ以上ない笑みを弥彦に向けた。たぶん弥彦にはほとんど見えないだろう。 「実は来てくれないかと思ってたんだよ。はー、良かった。……せん?」  千代鶴は笑顔のまま袖を振り、素早く何かを茂みに投げ付けた。閃いたそれに呻き声がひとつ鳴る。 「僕を覗き見するとは舐められたもんだね」 茂みの向こうで苦しげな息遣いが聞こえた。 「さっさと死にな」 首を押さえ躍り出てきた男は、その場に崩れ落ちた。 「……そいつ、死んでるのか? おまえが?」  背後から弥彦の声。狼狽えている声ではない。案外と肝が据わった男だ。熱く優しい眼差しが脳裏を過ぎるが、すぐに振り払った。  逃げられる前に仕留めねば。  振り向いた千代鶴はにっこり笑顔を向ける。 「弥彦、僕のこともっと知っておけば良かったね。愛してる」  出がけに忍ばせた懐刀。丸腰だと思わせるために刀は置いてきた。  抜きざまに首を掻っ切った。はずだった。  ……弥彦に手を弾かれた。 「な!」 「知ってたよ。俺がおまえをどれだけ好きだと思ってんの? バカだな」  耳を貸すな。  ……力では分が悪い。大人しく懐刀を離した。 「まさか知られていたとはね。いつから?」 「子供の頃だよ。時々、仕事抜け出してどっか行くおまえの後を着けたんだ。おまえの近くに死体があった。そんなことが何回かあった」  千代鶴……せんは、目を見開いたまま弥彦の話を聞いた。 「これでも気付かれないように必死に着いてってたんだぜ。引き抜かれた時は確かに辛かったけどさ、もう人殺しなんてしなくて済むなって思ってた。それなのに……」  あの日、上等な女物を着せられ遠ざかるせんの小さな背中。  こんな世界でも向こうに行けば少しはマシだ。  弥彦はそう言い聞かせ黙って見送った。  弥彦の顔が歪む。せんは胸が苦しくなった。 「よく防げたね。腕には結構自信あるんだけどな」  努めて冷静を装いおどけて見せた。実際、本当に驚いていた。今まで失敗したことなどなかったのだ。 「殺陣の稽古くらいしてる。まさかこんなところで役に立つとは思ってなかったけど」  弥彦はせんの両肩に手を乗せた。今守らないでいつ守ってやれる。  本当は優しい気質のせんが、辛くないわけがない。 「せん、さっきのは監視だろ? でも、もう死んだ。こんなところにいちゃダメだ。おまえは人殺しなんかしなくていいんだ」  ああ、そんな言葉をもっと早く聞けていたら……。この手はすでに後戻り出来ないほど血で汚れすぎた。それに籠の鳥である自分が逃げ出すことはもはや不可能だろう。  頬から伝う涙に視界が歪む。もうひとつの隠し刀を抜く。 「弥彦は生きて……」  呟くと、自分の首に一気に突き刺す……。 「ってぇ……はは……」  弥彦は素手で刃を掴み、せんの首に刃が届く寸前で止めていた。狼狽えるせんを見て、弥彦は優しく微笑んだ。  守れると思っていた。  助けるのが、遅かった。 「……一緒に背負えねえなら」  (え……?)  弥彦はせんの刀を奪い、自らの首元に近づけてゆく。 「おまえが生きてくれ」  弥彦は自分の首を掻き切り、ガクンと膝を着いて倒れた。 「せ……ん……」  吹き上げる血がせんに降りかかる。何が起きたか分からない。目の前で、弥彦が血を吹き上げて倒れている。  せんは膝を落とし、空を見上げた。雲が厚くかかった三日月がうっすら見える。  ──せん  風が弥彦の声を運んできた気がした。所詮は交わることの無い運命。それでも……。 「弥彦……」  声をあげず咽び泣いた。神社に吹く風は木々を揺らし、涙を乾かすように何度も吹き抜けていった。 ~完~

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