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本棚に追加第一話 太夫の蕾
夜の帳が下りるころ。
吉原には一つ、また一つと提灯の灯がともり始める。
昼間の喧騒を忘れた町は、紅を差し、香をまとい、ゆるやかに夜の顔へと姿を変えていく。
三味線が鳴る。
どこからともなく笑い声が流れ、甘く焚かれた香の匂いが風に乗った。
男たちは、その灯に誘われるように暖簾をくぐる。
夢を買うために。
一夜限りの花に、心を預けるために。
吉原。
色を売り、
夢を売り、
そして朝になれば、その夢さえ跡形なく消えてしまう町。
咲き誇る花々は、夜が明ければ何事もなかったように微笑み、また夜になれば誰かの心を惑わせる。
その吉原の片隅に、一軒の小さな妓楼があった。
扇屋。
大店とは比べるべくもない、小さな店である。
されど、その暖簾の前には、今宵も一人の青年が立っていた。
「さぁさぁ、お立ち会い!
べっぴん揃いの妓楼でございますよ!」
「寄ってらっしゃい!
うちの娘は器量よしばかりだよ!」
あちらこちらから威勢のいい呼び声が飛ぶ。
笑い声。
盃の音。
男たちは一人、また一人と暖簾をくぐっていった。
その中で一際よく通る声が響く。
「さぁ、お立ち寄りくだせぇ!
うちはご覧の通り、小さな妓楼。
されど、この吉原でも指折りの花ばかりでございます。」
客が足を止める。
「ほう。」
青年は人懐こく笑った。
「ただ一つ、お詫びがございまして。
うちの太夫は、お客様にはまだ早うございます。」
客は眉を上げる。
「なんだい、それは。」
「ええ。」
青年は悪戯っぽく笑う。
「桜も気後れしてしまうほどの花でございますゆえ。」
客が思わず吹き出した。
「そいつは、大きく出たな。」
「ですが。」
青年は胸を張る。
「うちの卯月は簡単には散りません。」
「咲くまでには時も金もかかります。
されど一度咲けば、この吉原一番の花になりますとも。」
客は暖簾の奥を覗く。
「小さい店じゃないか。」
青年は笑みを崩さない。
「小さいからこそ、一人一人に目が届くのでございます。器だけでは、花の善し悪しは決まりません。」
「……面白い。」
客は笑って暖簾をくぐった。
青年は深く頭を下げる。
「ありがとうござんす。」
客は別の若い衆へ引き継がれ、奥へと案内されていく。
「弥太郎!」
「弥太郎、どこだい!」
「はい!」
青年は小走りに駆ける。
坂田 弥太郎。
弥太郎は扇屋で生まれた。
遊女たちの笑い声を子守唄に育ち、
泣けば誰かが抱き上げ、
転べば誰かが袖で涙を拭いてくれた。
気づけば若い衆となり、
今では誰よりも忙しく店中を走り回っている。
「弥太郎!」
遊女が頬を膨らませる。
「あんたさぁ、また卯月姐さんのとこへいいお客を回したろ?」
弥太郎は困ったように笑う。
「そんなこと言われましても。お客さんがお望みなんですから。」
「ちぇっ。」
別の遊女が口を尖らせる。
「わっちのとこにも、たまには景気のいい旦那を回しとくれよ。」
「そうそう。あんた、卯月姐さんびいきなんだから。」
弥太郎は頭をかいた。
「皆さん、同じように大事ですよ。」
遊女たちは顔を見合わせる。
「まぁ! 口だけは達者だこと。」
「あはは。」
廊下に笑い声が響く。
それもまた、扇屋のいつもの夜だった。
「あいよ、弥太郎。」
奥から静かな声が響く。
「姐さん。」
「卯月太夫。」
遊女たちの笑い声が、すっと止んだ。
誰からともなく背筋が伸びる。
障子が静かに開く。
そこには、
淡い桜色の打掛をまとった一人の太夫。
廊下へ出ることはない。
ただ一歩だけ姿を見せ、弥太郎へ微笑む。
「お疲れさん。」
弥太郎も自然と笑う。
「姐さん、今夜もよう売れてますよ。」
卯月は静かに頷く。
「それは何より。」
そう言うと、
弥太郎の襟元をそっと直す。
「そんなに走るもんじゃないよ。着崩れてる。」
「えへへ。すみません。」
卯月は苦笑した。
「ほんに。大きくなったもんだ。」
優しく微笑むと、卯月太夫は弥太郎に頼み事をした。
「弥太郎、禿に酒を取りに行かせるから、ついて行って教えてあげてくれないかい。」
「分かりました。」
「よく飲む客のようでね、すぐに無くなっちまう」
そう言って部屋へ戻り、
障子が静かに閉まる。
遊女がぽつり、
「姐さん、弥太郎には甘いねぇ。」
「そりゃそうさ。」
「小さい頃から育ててるんだから。」
弥太郎は照れくさそうに頭を掻いた。
灯りと暖簾が揺れ、
交わる人の影。
吉原の夜は、
まだ始まったばかりだった。

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