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本棚に追加第一章 プロローグ
節足動物。それは五億三千七百万年前に誕生し、植物と契約を結び、全生物種の八十五パーセントを占め、実は地球の真の支配者である。
地面のひび割れを這うアリ、丸まったダンゴムシ、落ちた花に群がる虫たち。そして蜘蛛。彼らはただ、そこにある自然の営みを繰り返していた。
夜の闇に沈む建物があった。周囲を囲むフェンスには「高圧電流 Caution」と書かれた黄色い標識が掲げられ、人を寄せ付けない重苦しい空気を漂わせている。
施設内の研究室。真っ白でふわふわとしたテディベアのぬいぐるみを手に、白衣姿で眼鏡をかけた研究員が満足げに微笑んでいた。
パソコンに向かっていた女性研究員が、彼の様子に気づいて声をかける。 「どうしたんですか、ニヤニヤしちゃって」
女性は振り返り、微笑みながら続けた。 「久しぶりに家族に会えるから嬉しいんですよね」
机に座り、カップ麺を開けようとしていた別の研究員も、同意するように笑みを浮かべる。 「なんたって二ヶ月ぶりですからね」
彼はカップ麺のフタを開けながら尋ねた。 「そのぬいぐるみは奥様に?」
「いや」 眼鏡の研究員はテディベアを愛おしそうに見つめながら答えた。 「娘へのプレゼントなんだ。明日はね、誕生日なんだよ」
彼はテディベアを抱え直し、同僚たちに向き直る。 「じゃあ、君たち二人には苦労をかけるけどさ、あと一日、よろしくな」
「はい」と女性研究員が真っ直ぐに答える。
「それじゃあ、お先に」
「お疲れ様です」 女性研究員も会釈する。 「お疲れ様です。いい休暇を」
「ありがとう」 眼鏡の研究員はそう言い残し、テディベアを抱えて研究室を後にした。
薄暗い廊下。彼は大切なテディベアを胸に抱き、足早に歩いていた。
その時、暗がりから尋常ではない殺気が迫ってきた。目には見えない巨大な質量を持った「何か」が、猛烈なスピードで突進してくる。
巻き起こる突風。怪物が迫る勢いで、積み上げられていた段ボール箱が突突として宙を舞い、彼に激突した。
「うわっ!」 不意の衝撃に、彼は床に倒れ込む。
立ち上がろうとした次の瞬間、彼の顔が恐怖に歪んだ。迫り来る不可視の怪物に向かって、彼は絶叫する。
「うわーっ!」
鈍い音とともに、白い壁にべっとりと鮮血が吹き散らされる。
床には、真っ赤な血に染まり、首のリボンが痛々しく汚れたテディベアが転がっていた。
同じ施設の別の部屋。薄暗がりの中、机に向かう白衣の男の背中があった。彼は手にしたICレコーダーに静かに語りかけている。
「あれから十分が経過しているが、Aは破壊が始まってから分裂が著しく行われ、まだ再生をし続けている。Bの方は、全く再生の兆しは現れない。しかし、Bの反応も全くないわけではなく、再考の余地あり。XBRの試験、試みる価値あり」
男の顔は闇に隠れ、その声だけが冷たく響いていた。
同じ頃、廊下では先ほどの女性研究員が、恐怖に顔を引きつらせながら走っていた。
背後から迫る得体の知れない存在。行き止まりのドアを押し開けようとするが、開かない。彼女は悲鳴のような息を漏らしながら、横の部屋へと逃げ込んだ。
続いて、別の二人の白衣の研究員が廊下を駆け抜け、女性が逃げ込んだ部屋の前へ到達する。
すりガラスの入ったドアの隙間から中を覗き込んだ二人は、息を呑んだ。
暗闇の中、不気味に青く光る二つの目。赤黒い筋繊維が剥き出しになったような、巨大でグロテスクな肉塊の化け物がそこにいた。
「キャー! お願い、助けて!」 女性研究員は壁際まで追い詰められ、泣き叫びながら化け物を押し除けようとしている。
「あっ!」 「所長! 所長!」
ドアの外の二人が叫んだ瞬間、化け物の鋭利な触手のような部位が、女性の胸部から腹部を深々と貫いた。
「あああ!」 血が噴き出し、女性の体がくずおれる。
その凄惨な光景に恐れをなした一人の研究員は、後ずさりして機材の乗った棚に激突し、派手な音を立てて床に倒れ込んだ。
倒れた彼の目の前、タイルの床に一本の注射器が転がっていた。中には黄色い液体が入っている。
彼は這いずりながらそれに手を伸ばした。背後では、残されたもう一人の研究員が化け物に捕まり、もがき苦しんでいた。
怪物の青い目が妖しく光り、彼に狙いを定める。
倒れていた研究員は意を決し、迫る怪物に向かって、唯一手にした注射器を武器代わりに力任せに突き立てた。
針が肉に沈み込む。と同時に、注射器の筒の中で黄色い液体に怪物の赤い血が混ざり合い、不気味な色を帯びた。
「うわあぁぁぁ!」 彼は苦悶の叫び声を上げ、顔を歪めた。
その直後、得体の知れない恐怖が彼を完全に支配した。
彼はパニックに駆られてその場から逃げ出し、研究所から脱走しようと、血に染まった白衣のまま表に向かって走り出した。
夜の屋外。
彼を追って駆けつけてきた別の男が、必死の形相で叫んだ。 「待て、待つんだ! そっちはダメだ、待て!」
しかし、恐怖で理性を失った彼の耳には届かない。彼は敷地を囲む、高圧電流の警告標識があるフェンスによじ登ろうと手をかけた。
フェンスに触れた瞬間、青白い閃光が走り、男の全身を激しい電流が貫いた。
凄まじい爆発が起こり、彼は真っ赤な炎に包まれながら焼かれていった。
静寂に包まれた部屋の中。
恰幅の良い所長が、冷徹な表情で座っている。
その前に、ICレコーダーに録音を残していたあの男が立ち塞がり、声を荒げた。 「何度言ったらわかるんですか、所長! 今度のことは単なる事故です。この研究が失敗だということにはなりません」
しかし、所長は顔色一つ変えずに言い放つ。 「何人死んだと思ってるんだ。研究の中止はもう決定したことだ」
所長の太い指が、手元にあったHBの鉛筆の先についた消しゴムを力任せにへし折った。
再び夜の屋外。フェンスの前。
所長、そして彼に詰め寄っていた研究員の男たちが見守る中、ヘルメットと防護服で完全武装した研究所の警備員たちが暗闇に向かって陣形を組んでいた。
「構え!」
緊迫した空気が流れる。無機質なアスファルトの地面、そこにあるマンホールの蓋の向こう側から、巨大で禍々しい怪物の影がじりじりと迫ってくる。
所長は前方を冷徹に見据え、短く命じた。 「撃て!」
号令と共に、警備員たちが一斉に引き金を引く。激しい銃撃音が夜の闇を引き裂く。
そして、陣形の中央に立つ警備員が一歩前に出た。彼が構える長い銃身——火炎放射器から、轟音と共に巨大な炎の塊が吹き出した。
灼熱の業火が闇の奥の怪物を包み込み、あたりを真昼のように赤く染め上げた。

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