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…っちだ――や、待て……
夜の森に途切れ途切れに男の声が響く。
ハァ…ハァ…――
その夜の中を走る少女が一人。
フードを目深に被ったその少女は、ひたすら声のしない方を目指して、森を走り抜けていた。
もうすでに少女の着ている物はボロボロに破れ、身体の至るところからは血がにじんでいる。
「――ッ!」
足に走る痛みに思わず顔を歪ませながら、少女はゆっくり呼吸をすると、ふいに呟くように詠唱呪文を紡ぎ始めた。
「θεμπ…νε…ηοδ…θεμπ…νε…ηοδ……」
少女の詠唱呪文によって、少女の周りに次々と精霊が紡ぎ出されてゆく。生み出された精霊は、少女を守るように取り囲んでいった。
その時
「どこ行ったぁ、あの小娘?」
男の声が、予想外に少女とかなり近いところで発せられた。詠唱の方に夢中で、自分が男の近くを走っていると気がつかなかったのだ。
――まずい
驚いた少女はもときた道を、すぐに引き返そうとする。
が、しかし
―――ガシッ!
少女の腕が捕まれる。
振り向けば、月明りに照らされ不気味に笑う男の顔が、そこにあった。
「見つけたぜぇ?もう逃がさねぇ!」
「α…αζλ!(い…痛い!)」
男は掴んだ少女のか細い手を、容赦なく締め上げてゆく。ミシミシと少女の骨が悲鳴を上げた。
男はどんどん締める力を上げ、少女の腕はすぐに限界に達した。
しかしその時、男は少女の周りに浮く物体に気付いた。
「あ?なんだ?こり――」
「ζισε!!」
男が言い終わらない内に、少女は鋭く詠唱を終える。次の瞬間少女の周りの精霊が燃え上がるように光り、男は一瞬にして火だるまになった。
「うわあああぁぁぁ!」
静かな夜に男の悲鳴が響き渡った。
少女は驚きはしたもののすぐさま、火だるまになった男を置いて、さっきの道を駆け出した。
ハァ…ハァ…――
森の木々の間から見える空には、赤い二つの月が覗いている。
まるで、月まで不気味な笑みを浮かべているようだ。
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