金翼の司馬、司徒、司空

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   身を寄せ合って声と恐怖を噛み殺し、ぐしゃぐしゃに濡れた瞼をきつく閉じて震える人びと。このフロアには五百人近い民衆が集まっている。  廃城と化したアヴァンの最上階にある大広間。窓が割れて、吹き込んだ雨風が内壁を劣化させて、侵入した小鳥や小動物が持ち込んだ種子により雑草も発芽している。しかし天井にまで描かれた色彩豊かな伝承の壁画は色褪せてはいない。  その者は太陽に包まれていて、まばゆく輝く光を放つ。その者は威風に包まれていて、諸悪もたじろぐ覇気を放つ。その者は死と慈愛に包まれていて、見るものがとろける魅了を放つ。春風に運ばれる花びらのように、黄金色の羽の舞う空に降臨する三大司の壁画像。 「私の祖国は黒い煙りと嘆きで満たされました。アヴァンの最上から天を望んで、涅槃(ニルヴァーナ)にと信仰を捧げる時……」  廻緑に立つ少女は、両手を力強く握り合わせると、しゃがみ込んで言葉にならない何かをつぶやいている。日輪の光冠が涙に濡れた視界の中で揺らめいていた。 「その時がきました、祈りましょう。ひとりで身投げしてはなりません」 「見つけたよ修士様、黄金色に輝く大きな翼、ほら、風に舞ってふわふわと――」 「空ですか? 何が……」  幼子をたったひとりで身投げさせるわけにはいかないと、既に制圧されている大聖堂から逃れてきた若いシスターが声をかけている。しかし少女の瞳に奥底に映る希望に満ちた輝きを見た瞬間に息をのむ。  城下町から響き渡っていたメイデ伝統の打鎧の音が止んだ。その瞬間にざわついていた廃城内が、まるで妖精が通り抜けたかのように静まり返っていた。終わりを告げる鐘の音とは、鳴るのではなく止むものなのだと理解していた。    『どんな弔いの鐘があるというのか、家畜のように死んでゆく者どもに、ただ大砲の化け物のような怒りだけが、ただうなり返す魔導器のすばやい咆哮だけが、せわしない祈りを唱えている――』  誰かが歌い出した。これは安息(レクイエム)鎮魂歌(エテルナム)。その声につられて身を寄せ合う者たちが、ひとり、またひとりと、すすり泣きながらも祈り始める。  祈りを捧げていないのは少女とシスターだけだった。彼女らは真っ白になっていた。神に生涯の全てを捧げて、今までに何千、何万回と繰り返して捧げてきた祈りの言葉が頭に浮かばない。奇跡を目の当たりにしているというのにだ。  少女とシスターの立つ位置に最も近いところにいた負傷兵が、驚愕のうめき声を上げている。内壁を支える円柱に背をもたれて座っていたのだが、裂かれた腹からの出血が激しい。息苦しさに耐えかねて仰向けに倒れてしまったのだ。その瞬間に、瞼に飛び込んできたのは金色の翼。  大聖堂の司教(ビショップ)が何事があったのかと廻緑に歩み寄る。そして天を見上げて、嗚咽を漏らして絶句していた。 「天空から舞い降りる黄金の翼、大老様、みんなの信仰が天に届いたよ」 「あ、あれは千年竜王ファブニール……、黄金竜は伝説に消えた、幻の都デイ・ファブニルの護り神、黄金の翼とはそういうことだったのか……」  木製の杖が転がる小さな音が鮮明に響いている。足腰が弱っていて、杖がないと立っていられないはずなのに、呆気にとられて落としたことにも気づいていない。誰よりも長く生きてきて、誰よりも祈りを捧げてきた大老であったが、神の奇跡を目の当たりにしたことなど一度もなかったからだ。  太陽の光をうろこに受けて、拡がるペタの翼が金色に発光している。その背には、お約束のように三人の人間が跨がっているのが見える。威風堂々と騎乗立ちするボルゲの真っ赤で長いふんどしが、まるで軍艦旗のように、風に揺らめいてなびいていた。
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