『失くした男』全3ページ

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 でも今、僕は分かっている。いや、本当はもう、そんなことは始めから分かっていた。  実行に移せるかどうか、あまり自信は無い。だが、こんなところに居ても、ただ泣き崩れて弱志な希望を待ち続けても、何も始まらないのだ。  この言葉を自分の中で何度か反芻させた後、僕はついに決心し、その部屋を飛び出した。  限界ギリギリまで縮められていたバネのように、僕の脚は勝手に前へ突き出る。あり得ないくらいの量の向かい風が、僕の髪や頬を乱暴に引っ掻いた。  流れていく周りの景色は、相変わらずの無感情だった。いつまで経っても、ちっとも変わることなく、停滞している。  それでも僕は、やっと見つけた一つの目的を果たすため、構わずに走り続けた。  その内に、何か重く、どろっとしたものが、自分の足に絡みついてくる。でも僕はそれらをかかとで思いっきり蹴飛ばして、この汚れた町を駆けていった。  何分間、走り続けただろうか。不思議と、全く疲れていない。息切れも無い。このままどこか遠くへ、走って逃げていきたいような気さえした。  だが、それは出来ない。もうすぐ僕は、この足を止めるのだ。  彼女の家まで、あと少し。  家の前までたどり着くと、そこには何と、彼女がいた。ちょうど帰宅したところなのか、玄関の鍵を開けて、家に入ろうとしていた最中だった。  僕は、自分の目を疑った。  あんなに恋焦がれた彼女が、目の前にいる。それだけで、自分の心臓が膨張し、今にも針を突き刺された風船のように音を立てて破裂してしまいそうだった。忘却の彼方へ葬られていたはずの涙が再び、自分の頬にとめどなく流れていく。だがこれは、悲しみと後悔の涙などではない。  歓喜と、成就の涙であった。  目の前の彼女がたとえ幻であったとしても、僕は全く構わなかった。きっと、うれし涙のカーテンで、そんなものは見えなくなっているだろうから。  自分の高鳴る心音に矢も盾もたまらず、僕はその家の中に入っていった。
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