命と死の味

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ショパン、シューマン、ベートーベン。 長い間ピアノから離れていたせいで腕は上手く動かない。それでも、紗奈は傍らで実に楽しそうに裕紀の演奏を聞いていた。 うっとりと優しい子守唄でも聞いているかのように静かに目を閉じている。 時折指がトントンとリズムを刻む。鍵盤をなぞるように、昔は紗奈もきっとそうして音を刻んでいただろうように。 「裕紀は、」 「…ん?」 「どうしてピアノやめちゃったの?」 「……つまらない話だけど」 裕紀は紗奈の質問にピアノを弾く手を止め、遠くに仕舞われてしまった古い記憶を呼び起こすように遠くを見つめる。 昔話を誰かに聞かせるのは初めてだった。 「学生の頃はコンクールで入賞したこともあってね、僕は少し浮かれてたんだ」 あの頃、世の中の全てが自分の力でどうにでもなると思っていた。自分の実力ならば世界さえ思いのままだと思っていた。愚かであるとさえ気付かないほど、あの頃の自分は愚か者だった。 飛び抜けて秀でた容姿、学業も優秀でピアノ以外でも裕紀は有名な存在だった。自分に取り入ろうとする取り巻きたちも多く、女性は掃いて捨てるほど近付いてきた。実家もそれなりに裕福で苦労をしたこともなかった。自分は選ばれた人間なのだと思っていた。神から特別な才能を与えられた特別な存在。だから自分は何をしても許される。だなんて馬鹿げたことを信じていた。 「大学では練習や勉強に追われていたけど、外では色々とやりたい放題でね。女性とも数え切れないほど付き合ったし、顔も名前も覚えていない子とも平気で一夜を共にしていたよ。自分は特別だからこんなにも沢山の人が集まってくる。自分は特別だから、相手を傷つけても許される、なんてそんな最低な人間だったんだ」 コンクールに出れば賞を貰い、将来を嘱望された。周囲の期待はどんどん膨らんでゆく。だからもっと上を目指した。上を上を、更なる高みを。人々からもっと沢山の賞賛が欲しかった。また、自分にはそれが与えられるべきだと考えていた。 「でも、どのコンクールにも必ず自分の上にいる一人の女の子がいたんだ。」
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