営業の男 3⃣

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「あんたさあ、いつも東中野から乗って来るじゃん。毎日後ろから二列目の車両でしょ。私もいつも後ろから二列目なの」 美香はまだ大沢とは目を合わさずに、目の前を歩く無表情な人々の群れをぼんやりと眺めながら組んでいる足を組み替えた。 大沢はまだ美香の横顔を凝視していた。 そんな些細なことでオレを憶えていたのか? あんな満員電車で?一体どういうことなのか 一度、大きく深呼吸する。 「君は国立の娘じゃないの?」 なんとか声を裏返させずに言う事が出来た。 「国立だよ。でも学校がこっちなんだ。代々木まで通ってる。あんたは新宿で降りるでしょ」 「それで……なんであんなに人がいるのに、オレのことを憶えているんだい?」 美香の口端が軽く上がる。リップグロスでうっすらと覆われた薄いピンク色の唇が夏の日差しでキラリと光る。 そのあまりに妖艶な輝きに、大沢は引き込まれるように視線を移した。 「だってあんたさあ、いつも一人でなんかぶつぶつ言ってんじゃん。変な奴と思って見てたんだ」 失敗したなあ 頭によぎる。 いつも自分では無意識に発しているであろう、その言葉が大沢の頭の中に大きく反響する。この少女は知っていたのか? 大沢は顔が紅潮するのを感じていた。
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