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僕は耳に栓をして居間におりる。
「おはよう」
なんてことはない。
「化粧に時間かかっちゃった」
僕はのそりと炬燵に入る。
ぐつぐつ、と母は味噌汁を煮立て、
くっくっ、と父は新聞を揺らす。多分。
目玉焼き二枚と、トースト二枚、そして沸騰した味噌汁を胃に流し込み、化粧道具に目線を落とす。テーブルの下。塹壕。僕の戦いが始まる。
やけに、静かだ。時が止まったかのように、体がこわばるのが分かる。透明なセメントの中。息を殺す。
かすかに、TVから音が聞こえる。
ニュース番組。
僕はこっそりと耳を傾ける。
敵の居場所は確認できない。
敵は僕を殺す気だろうか。
ひょっとしたら、今投降すれば、まだ間に合うのかもしれない。助かる。
ゴジラと呼ばれるメジャーリーガーが結婚したらしい。球界最後の独身大物。
幸せが戦場を駆け抜ける。僕は思わず手を叩き、歌を口ずさむ。
心残りは、まだ『戦場のクリスマス』を見てないこと。か。
だから僕は『君をのせて』を歌う。
この歌が彼らに聞こえるだろうか。
「投降せよ」と遠方から聞こえる。
どうやら他の仲間は武器を置いて投降したらしい。うんうん、それでいい。
今ならまだ間に合う。
まだ幸せが掴めるはず。でも僕は違う。
納得しなければ、真の幸福は得られない。さて、どうしようか。
埒が明かないな。
たたたたん。たたたった。たたたん。たたたたた。たん。たたった。
さあ、みんなも一緒に。
たたたたん。たたたった。たたたん。たたたたた。たん。たたった。
愉快、愉快。
僕はそれを見ながら、一人ではないと感じずにはいられなかった。
ただ、音はすぐに止んでしまうので、僕は必死に手を叩いていた。涙が止まらなかった。
いつの間にか、TVでは親を殺した子供の話になっていた。
そんなもんだよ。安っぽい幸せなんかで、塗り固めてもしょうがないんだ。
僕は塹壕を飛び出した。もうこの塹壕はもたない。僕は泣いていた。こんなときに、いやこんなときだからこそ、『君をのせて』を歌わずにはいられなかった。
父さん。母さん。
うわああああぁん。
僕は開かれた携帯を閉じ、食器を片付けに台所へと立つ。ジャー。キュッ。
「偉いねぇ」と母さん。子供じゃないんだから。でも僕はほっと胸を撫で下ろす。
よかった。
そこにはいつもと変わらぬ朝があった。
‐おしまい‐
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