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「源三郎?はて…人違いではござりませぬか、」
「嘘を仰いなさるな、面白いお方だ」
くすくすと笑い零す矢右衛門であるが、しかし源三郎は同じ笑顔のまま。其れは一見すれば相手へ敬意を見せる笑みだが、しかし矢右衛門は感じていた。其の笑顔は、余所者を近付けさせぬ為の壁であると言う事を。
「一度、拝見したかったのですよ。長身色黒の色男…し乃雪太夫のお気に入り、噂々の源三郎殿を」
「ご挨拶ですぜ、旦那。某はし乃雪とは只の腐れ縁でさ…」
「もしそうであれば、太夫の夢にまで出て来ますまい?」
「友人は夢に出て来てはいけぬと?」
「… ふふ、あくまでもしらを切り通すのですね、」
ぢゃり。
砂利を踏み、矢右衛門は源三郎に並び、暖簾へ向かい。
そしてすと源三郎の顔を見、言った。
「し乃雪は… もう、私のものだ」
「… ふッ 、」
途端。矢右衛門の予想に反し、源三郎が思い切り破顔してしまい、其のまま腹を抱えて笑い出した。無論、矢右衛門は少々ムッとし、しかし言葉尻に感情が出る事無く。
「何か、可笑しな事でも?」
「そりゃ旦那…可笑しいも何も、」
膝に手を付き笑っていた源三郎は、しかしふと矢右衛門の顔を斜に見上げ。驚く事に、彼の顔には驚きもおののきも無く、あるのは自信に満ちた「男」の顔である。
「し乃雪は其の様な軽い奴では無い、其れを知るはこの新藤源三郎のみ。其れこそが、真(まこと)の『おもう』と言う事でござろう?」
「……、」
この時初めて、矢右衛門は源三郎を睨み付けた。ほんの一瞬であった上に軽くであるが、確実に、其の中に恨みを込め。
しかし、直ぐにまたあの優しい笑みへと戻り、彼は目を伏せ、笑顔を零した。
「成る程… いやはや、この様な面白き仲は初めてだ。 …私も、貴方の様な人に早く出会えていたらな、」
「今からでも遅くありませぬぞ。矢右衛門殿はお優しい」
「…ふふ、何だ。私の事を知っていたのですか、」
「失礼とは思いながらも、身の上をば調べさせて頂きました」
「そうでしたか…」
つい、と再び目を伏せ、ほんの少しの時間、思考を巡らせ。次に上げた其の顔は、先刻まで無かった、悲しい色を湛えた笑顔だ。
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