序ノ口 -吉原の妖狐と色男-

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  安永七年。 とうに太夫が姿を消した吉原の町は、しかしそれでもむせ返るような金と人の臭いでごった返し、相も変わらず混沌とした輝きがぬらぬらと闇夜を照らしていた。その輝きはどこか妖しく、だが引っ切り無しに人々を惹き付けて止まない。 あすこの女(みつ)はあぁまいぞ あすこの女はすっぱいぞ ほれ、あの店じゃ一昨日あの子が座敷持になったんだと… おぉいよいよ遊べるのか、…… そんな会話は四六時中。 江戸の華咲く闇夜の城下は、黒と紫。真っ赤に熟れた果実を腹に溜め、今夜も欲にまみれた男共を、口を開けて待っている。 そんな中、ある出逢茶屋がちょっとした話題を呼んでいた。 黒町屋、と言う茶屋が、吉原のど真ん中に建っているのだが、これが一風変わった店であると。 どこもかしこも、確かに今は店毎に個性を持つ時代ではあった。しかしその店が持つ個性が、…否。そこに居る、ある遊女の個性が。 今宵も一人、ほら。 黒町屋の二階の窓を呆然と見上げる、一人の男。 彼の名を、新藤源三郎、と言った。 源三郎もまた、一風変わった男だ。 見た目は二十を少し過ぎた色男だ。色黒の肌、がっちりとした肩に、藍の着流しが良く似合う。少し垂れた目元が程よい色香を漂わせ、只佇むだけで客引きは男も女も彼に声をかけた。しかし彼は他の店にはなぜか靡かなかった。その理由が、先刻述べた黒町屋の遊女だ。 金の無い男ではなかった。むしろ金など腐るほどある、と言う素振り。無論嘘ではなく、週に二・三回黒町屋に足を運んでは十両程度ずつドン、と使って帰っていく。 「…今夜もあの子に相手して貰えなかったな、」 そう呟き、源三郎は少し寂しそうに帰っていくのだ。  
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