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◇
病院特有のツンとした匂い。それが鼻を掠めて顔をゆがめる。
この匂い。生きる希望を失った“あの頃”の匂いと全く変わらない。それが俺を不快にさせる。
人間の死が身近にあるこの場所。ただでさえ子供の頃から好きになれなかったというのに。
「田村さん、田村さん。いい加減にしてください」
「はいはーい」
痺れを切らしたアナウンスに呼び出される。白昼夢から醒めたばかりの覚束ない足取り。
欠伸をひとつ。俺は慣れた診察室へと向かった。
◇
「最近どう?」
「フツー」
診察室に入るなり、セックスの最中にも巻いたままの大きめのゴツい腕時計から手首を開放してやる。
いつもきつく巻いているせいか、地黒の肌には真っ赤で太い筋が入っていた。
隠さなきゃいけないものがあるから、俺はいつも決まった位置に時計をきつく締める。
必死で隠す“それ”が無ければ、今の俺はもっと中身があった筈だ。
デスクに腰掛けるのは、細身。メガネ。真っ黒の髪をオールバックにした担当医のオッサン。
俺はその向かいに位置する小さな椅子に腰掛ける。
コイツとはかれこれ二年越しの付き合い。
この病院に入院をしていた頃は特に、過去の女の話を聞いたりなんかして世話になった。
精神科医で金を持て余しているオッサンも、高校生で無い金であくせくしている俺も。
俺達はこんなに違うのに、女にだらしないところはまるで一緒だ。
「女の子とは?」
「昨日別れた。暴力されたんだぜ?」
ニキビだらけの頬の真ん中にでかでかと貼られた絆創膏をオッサンに見せつける。
「お前はなぁ。一年以上付き合わなきゃいい所が見えて来ないからなぁ」
奴はニヤニヤといやらしく笑い、一つ嫌味をぶつけてきた。
なんて医者だ。
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