竜彦と蓮

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〔1〕 6月の終わり、梅雨前線が去って、いよいよ本格的に夏が始まろうとしている暑い日のこと。 香角 蓮(かすみ れん)はデスクの上で原稿と格闘していた。 時刻はもう10時をとっくに過ぎている。 新聞の4面に載せる、ほんの小さなコラムを仕上げるのに、もう3時間を費している。 別に仕事能力が人より劣っているというわけではない。 ただ、「ネタ」がないのだ。 面白い「ネタ」さえあれば、それを何十倍、何百倍にも膨らませて執筆することが出来る。 そうやって普段ならテキパキと仕事を片付けて、9時半頃にはここから電車で4駅先にある自宅に着いているのだが。 今日は木曜日で、彼女の好きな恋愛もののドラマが10時から放送されている。 フロアの中央に据えられた大きなテーブルにあるテレビでそれを見たいのも山々なのだが、明日の朝刊の締め切りがあと数十分後ということもあって、他の記者たちがテレビを独占して、ニュースを血眼になりながら見ている。 蓮は溜め息をついた。 こういう日が時たまあるので、彼女はいつも出勤前には必ずHDDに予約録画をしておくのだが、今日に限って何故かそれを忘れてしまった。 "話の続きが気になる……!!" だが、今の彼女の頭は目の前で闘っているこのコラム欄のことでいっぱいだ。 余計なことを考えれば頭がオーバーヒートしてしまう。 蓮はきっぱりとドラマのことは諦め、仕事に専念することにした。 蓮は身長が180センチもあり、スラッとした体付きで、顔もなかなかの美貌である。 しかしガードが非常に固いため、彼女にたかった男衆はあえなく撃沈した。 当然、独身である。 まぁ、25歳という若さから見れば普通なのだが。 彼女の周りで時間だけが刻一刻と過ぎていく。 蓮は顔を両手にうずめた。 "完全に行き詰まったみたい……。1文字も書けないわ……" こういうのを「スランプ」と言うのだろうか。 いや、スポーツ選手や作家のスランプはまだましな方だ。 彼らにはスランプを克服するための余裕が充分にある。 残念ながら、記者にはそんな時間はない。 あと数十分でスランプを克服しなければならないのだ。 いっそ誰かにやってもらおうか。 いや、今の時間帯、手の空いてる人などいるはずがない。 「猫の手も借りたい」と言うが、まさにこのことだ、と蓮は身をもって痛感した。
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