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「きみにくちづけるには、くちびるだけじゃもう足りないんです」
そう言って突然、
私のデコルテを指先で弾(はじ)き始めた。
ピアノを奏でるように。
「この指先すべてが僕のくちびるだと思って下さい」
頬、額、瞼、二の腕の裏、手の甲、うなじ、背骨、膝頭・・・
二本の手で、十本の指が、私の体を奏でる。
一瞬身をすくめてしまった。
怖い、とさえ思った。
彼に身を任せるのは初めてではない。
でも、こういうことは初めてで。
「どこに、どんなふうに触れてほしいですか?
ちゃんと言葉で説明しなさい」
ピアニストとして成長著しい時期に腕を痛め、非常勤の音楽教師で食いつなぐ彼と
塾の国語・英語講師のアルバイトの私。
果たせなかった夢、挫折、喪失感。
焦燥、諦め、どうにもならない無力感。
それでも手放せぬ希望。
危うい、不安定な心の二人が寄り添い、手を繋ぎ
生きている恋。
彼の指先は彼の情熱をくちびるより雄弁に伝え、
私は、すぐに、言葉を失い、吐息混じりの声は
不規則な歌の破片となり、
空に散っていく。
美しい無音の音楽の前では、言葉は完全に敗北する。「きみのまなざしが僕の楽譜。僕にその目で今の気持ちを伝えて」
熱い涙が溢れる目で、彼の目に訴えた。
早く、その音楽で私を高みへと抱き上げて。
「きっと僕はきみを奏でるためにピアノを学んだ。
きっときみは僕に奏でられるために生まれたピアノ。」
・・・吐息と情熱のハーモニーが無音の旋律となり、
あとは
闇の中に
溶けていくだけ。
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